コリント人への手紙Ⅰ


49
霊と知性をもって
コリント第一 14:14-19
士師記       7:2-8
Ⅰ 愛と知性が働く中で

 「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」(14-15)と、ここは異言を肯定しているようにも聞こえますが、パウロは、解き明かしのない、意味不明な「◎△$♪※¥○&%#?(ピコパコピコパコ)」という異言に夢中になっていたコリント教会の人たちに、「それは神さまから与えられた異言ではなく、たとえそれが本来の異言だとしても、解き明かしのない異言は教会の徳を高めるものではない」と、彼らの異言を徹底的に否定しているのです。パウロの異言と彼らの異言、どちらも似ていたのかも知れません。だからでしょうか、このフレーズを読みながら、もしかしたらパウロは、人前で異言で祈ることを自らに封印していたのかも知れない、と想像してしまいました。ここでは、異言より知性を重んじるパウロのスタンスが、際立っているからです。

 パウロが、解き明かしにも触れず、自らの異言を封印している?のは、異言には「理性を排除する」という特性があって、それがエクスタシー状態に陥りやすいことを、よくよく承知していたからではないでしょうか。そもそも、神さまの前では、異言という異種のことばばかりか、私たち人間の知性さえ振り回す必要はないのです。ただただ、感謝と賛美をもって神さまとの交わりに没頭する。神さまとの交わりには、感謝と賛美だけがふさわしいのです。神さまは、私たちの一切の内なる思いをご存じなのですから……。コリント第二書に、「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(5:13)とありますが、これは、神さまへの感謝と賛美があたかも異言のようにパウロの口から溢れ出て、それが「気が狂っている」エクスタシーに見えたのでしょうか。

 けれども、今ここで問題にされているのは、教会内での互いの交わりなのです。それは人と人とのコミニュケーションですから、大切なのは、イエスさまの愛に裏打ちされた、互いへの愛あっての理性と理性の向き合いであり、だれもが「アーメン」と言える知性の祈りであり、美しいハーモニーを奏でる知性の賛美なのです。そして、勿論そこでは、内在される御霊の執り成しによる、信仰が溢れているかが問われるのでしょう。「霊において祈り、霊において賛美する」とは、そのことを指しています。愛と知性が働く中での信仰は、断じて、気が狂ったようなエクスタシー状態の中で異言を叫び出すことではない、と覚えて頂きたいのです。パウロがここで異言を徹底的に否定しているのは、その意味においてでした。


Ⅱ 教会の徳と質を高めるために

 パウロは、異言は本来、人々への祝福でなければならないとしています。「そうでないと(知性がなおざりにされ、解き明かしがないと)、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう」(16)とあります。異言は、取り成しの祈りであり、感謝であって、それが「霊における祝福」だと言っているのでしょう。パウロ自身も、多くの人たちのために涙をもって祈り、恵みの主に一切を委ねていました(使徒20:18-35)。

 それなのに、コリント教会の人たちの異言は、自分たちの願い事を神さまに申し上げるだけの祈りで、もしかしたら、異言を語ることで、「自分たちはこんなにも神に近い」と宗教的エクスタシーを誇示していたのかも知れません。そんなものは祈りですらないと、パウロの強烈な皮肉が聞こえて来るようです。しばしば、そうした祈りは「わめき声」と思われるほど大声になり、まさにそれは独りよがりの信仰と合致するではありませんか。そこには、イエスさまに愛された愛、その愛をもって他の人と向き合おうとする、キリスト者としての根本的信仰姿勢が決定的に欠けているのです。教会に本来的に充満するものは「愛」であると、現代の私たちも覚えておかなければならないでしょう。「アーメン」という同意は、そこから出て来るのですから……。

 「あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう」とパウロは、コリント教会に祈りの一致がないことを嘆きました。「異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから」とは、当時の教会に置き去りにされた人たちがいたことを咎めたもので、教会が大きく膨らむにつれて、弱い人たちから乖離(かいり)していくさまを憂えているのでしょうか。ですからパウロは、「あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません」(17)と、問題の中心点に踏み込みました。

 これは、パウロから現代の私たちへの、メッセージでもあるのです。信仰は―「もし異言を語るなら、その異言は」という意味ですが―、自分自身を(断じて、自分自身の徳をではない)高めるものでもありますが、ことさらに他の人たち、イエスさまの名が冠せられた教会の徳と質を高めるものでなければならないと、肝に銘じておかなければなりません。


Ⅲ 霊と知性をもって

 コリント教会の人たちの、大声で人を威嚇するような、エクスタシー状態での異言を否定してきたパウロですが、異言そのものを否定しているわけではありません。パウロは、「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」(18)と言っていますが、異言は、本来、神さまから与えられた特殊な「賜物」で、語る人を神さまに近づけるのに益あるものでした。ですからパウロは、「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいる」(5)と、異言の勧めまでしているのです。恐らくパウロは、異言を自在に操ることが出来たのでしょう。もちろん、そこに他の人たちがいるときには、解き明かしもしていたでしょう。「解き明かし」は知性の働きを指しますが、まさしくパウロは、知性の人でした。ところで私たちは、しばしばパウロを理性の擁護者、理性的神認識の擁護者としていますが、彼は決して、現代神学が信仰や神認識の尺度としているような、「理性」の信奉者ではありません。NTDの註解者は、「パウロは、常に理性を啓示と神の霊の道具としている」と言っていますが、まさしくその通りなのでしょう。知性の人パウロは、異言をもって祈ることの出来る「神さまの霊を頂いた人」として生き、歩み、人と接していました。そんなパウロの豊かな霊性を、私たちも引き継ぎたいではありませんか。

 けれども、そんな「霊の人」パウロは、知性をもって教会の前に立ちました。パウロの人と接するときの尺度は、「教会の徳を立てる」ことだったのです。言うまでもなく、教会は多種多様な人たちが集まる所です。コリント教会だけでなく、当時の教会には、恐らく、外国語を話す多くの奴隷、逃亡奴隷たちもいたようです。様々な問題を抱える教会にとって大切なことは、どんな人たちにもイエスさまの福音が届いて行くようにとの、心づかいでした。パウロはそれを、「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです」(19)と表現しています。「ほかの人を教える」それは、知性に基づくものであると聞きましたが、それはまた、「霊においても、知性においても」と言わなくてはならないでしょう。真の「霊と知性」は、互いに補完し合うのです。たった五つのことばでも、神さまの霊に裏打ちされた知性のことばは、「悪に打ち勝つイエスさまの福音として、どんな人にも届いて行く」のです。あたかも、ギデオンの元で、イスラエル三万二千人の全軍の中から、神さまに選び抜かれた三百人の精鋭が、海辺の砂のように多い敵・ミデヤン人に打ち勝った(士師記7:3-8)ように……。いたずらに大声でわめき散らす異言は、必要ありません。祈りをもって聞いた聖書のことばの一つ一つが、私たちの内に信仰と愛を育てるのです。その信仰と愛をもって、イエスさまに近づこうではありませんか。何よりもまず、主が私たちに近づいて下さったのですから……。パウロ書簡のどこを切り取っても、そこには、「あなたには愛があるか」との問いかけがあります。私たちの内にキリストの「愛があるか」と、聞かなければならないでしょう。


Home