コリント人への手紙Ⅰ


48
愛ある歩みを
コリント第一 14:7-13
第二サムエル   6:1-5
Ⅰ 美しいハーモニーが

 パウロについては、クールな知性の人というイメージが定着していますが、そのパウロの口から、さまざまな楽器の名前が飛び出して来たのは驚きです。先に銅鑼やシンバル(13:1)といった打楽器が、そして今また、笛やラッパといった管楽器や弦楽器の琴にまで触れて、しかも、笛と琴が同じシチュエーションで出て来るのは、パウロがある種のオーケストラ演奏を聴いていたからでしょうか。それは恐らく、現代のような演奏会ではなく、神殿か王宮で行われた、勝利の凱旋歌としての演奏だったのでしょう。銅鑼やシンバルの音が響いていたのはディオニュソス神やキュベレ女神の神殿ですし、琴の名手ダビデは、サウロ王のイライラや頭痛を癒やすために、しばしば呼び出されて演奏しました(Ⅰサムエル16:23)。ペリシテ人から「神の箱」を取り戻したとき、「ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った」(Ⅱサムエル6:5)とあります。パウロが演奏を楽しんでいたのは、どんな場面だったのでしょうか。知性の人パウロが音楽にも通じていたとする今朝のテキストに、パウロのイメージが転換させられる思いです。パウロにとって音楽は、それこそまさに、神さまを賛美するにふさわしいものだったのでしょう。ちなみに、本格的な教会音楽は、グレゴリオ・チャントと呼ばれる聖歌が発達した時代(9-10世紀)からですが、それは楽器の伴奏もない、素朴な男声合唱でした。

 「笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう」(7)と、これはオーケストラの光景ですが、パウロはもう一つのシチュエーションにも言及しています。「また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(8)とこれは、当時のローマ軍団が、ラッパの音を、進軍や退却、戦闘開始等の、司令官の命令伝達に用いていたことを指しているのでしょう。

 パウロはこれを、異言に適用しています。「それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです」(9)と。本来、美しいハーモニーが奏でられる筈のコリント教会で、そこで話されていた異言はまるで音の狂った楽器のようで、教会のハーモニーは、無残にも愛を欠いた不協和音になっていました。重んじられるべき異言が、意味不明なものになっていたからです。異言は、どんなに美化しても、その解き明かしがなければ、所詮、人を惑わすエクスタシーでしかないのです。


Ⅱ 不協和音は……

 小畑進師は、コリント教会に充満する異言の雑音を、「まさに悪魔的噪音で、獣性を帯びたるに近しと言われよう。愛の心に欠け、礼節を失った異言は、ただ壮大な噪音・咆吼と表現された」(前掲書)と鋭く洞察しましたが、まさに、意味不明な愛なき異言は、カルヴァンから「あなたの声は、神にも人間にもとどかず、空中に消え失せる」(コリント前書註解)とまで言われてしまうのです。

 教会で語られるメッセージのことを考えてみたいのですが、メッセージが空中分解してしまうのは、勿論、話し手の比重が大きいのですが、聞き手の責任も問われるのではないでしょうか。現代の教会では、聖書の入り組んだ意味を「難しい」として、あまり語られていません。しかし、もし教会で、聖書が語っている本来のメッセージを、異言と同じで、現代人にとって「難しい」という意識が暗黙裏に共有されているとしたら、教会が発信すべき「神さまのことば」としてのメッセージは、生まれて来ないのではないでしょうか。美しいハーモニーを奏でるメッセージは、話し手ばかりか聴き方からも生まれて来ると、その重さを覚えて欲しいのです。

 といっても、小難しいメッセージを、ただ忍耐して聞けと言っているのではありません。パウロは、話し手と聞き手が美しいハーモニーを奏でるようにと願っているのです。説教者は心を込めてみことばを取り次ぎ、聞く者は背筋を伸ばしてそれを聞く。美しいハーモニーは、そのように生まれて来るのではないでしょうか。

 解き明かしのない異言が理解されないことを、楽器の不協和音に譬えたパウロは、「世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です」(10-11)と、もう一つの譬えを持ち出しました。「異国人」とは恐らく、肉体労働をしていた奴隷のことでしょう。異国人を指す「バルバロス」は、「バルバル」と繰り返す擬声語から出来たことばで、不明瞭な音を発する外国人たちを、ギリシャ人がバカにして言ったものだそうです。「バルバル」はまさに、異言の「ピコパコ」「レレレー」「ルラルラ」……という、意味不明の発声と同じようではありませんか。きっと、大商業都市コリントに建てられた教会には、そんな外国人も多く、意志疎通が充分出来ていなかったのでしょう。彼らが教会に逃げ込んできた逃亡奴隷だとするなら、その彼らがギリシャ語を習得するのはなかなか困難で、教会内の不協和音は相当なものだったと思われます。しかし、教会は神さまのメッセージが語られ、聞かれるところですから、その不協和音は、解消されなければなりません。


Ⅲ 愛ある歩みを

 パウロはこのフレーズを、「あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」(2-13)と締め括りました。「御霊の賜物」とこれは、恐らく、コリント教会の人たちがパウロに宛てて書き送った質問状(7:1)にあったものなのでしょう。そこには、「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります」(7:7)とあります。その在り方は、「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが……」(12:1)と、12章で集中的に取り上げられた彼らの原点でした。

 その「御霊の賜物」は、教会役職と捉えられ、その役職に就くことを願って分裂分派の争いにまで発展した、いわばコリント教会の汚点の一つでした。が、パウロは、必ずしも彼らのそうした願いが非難されるべきとは言っていません。ただ、その動機がキリスト者としての立ち方に基づいているかと、問いかけているのです。彼らが覚えなければならないのは、「教会の徳を高める」ことでした。それは、先週、コリント教会の務めは、地域の人たちに向かって「信仰告白」を建て上げ、発信することであると聞きましたが、キリスト者としての立ち方が「信仰告白」であると聞くなら、パウロが「御霊の賜物を熱心に求めなさい」と言っていることも、頷けるではありませんか。残念ながら、彼らの熱心は「異言による宗教的エクスタシー」にあったと、方向が違っていました。彼らが教会を見ていたことは間違いありませんが、教会のためにと願った役職獲得が分裂分派の争いになったり、社会的権威づけになったりと、その視点の中心は、教会もその一部と捉えていた「この世」だったのです。それは、ある意味で、現代の教会姿勢でもあるのではないでしょうか。

 彼らが、異言を語ることに夢中になって、解き明かしを求めなかったのは、宗教的権威を高めたいとする虚栄(カルヴァン)が動機だったからでしょう。彼らのそんな意図を見抜いたからこそ、パウロは、「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めたのではないでしょうか。解き明かしがあって始めて、異言も教会の美しいハーモニーを奏でる楽器の一つとなり、信仰告白に益あるものとなるのです。しかし、「解き明かしを求めよ」と何度も言われているのは、もしかしたら、当時すでに、解き明かしは失われていたのかも知れません。現代、他の人の発言を封じるかのように大声で叫ばれる異言に、解き明かしがついている風景を見たことがありません。それなのに、異言が流行しているのは、その根底に、他の人を思いやる配慮=愛が失われているからではないでしょうか。現代の私たちは、意味不明な異言ではなく、美しいハーモニーを奏でる、愛ある歩みを目指したいではありませんか。


Home