コリント人への手紙Ⅰ


47
立つべきところは
コリント第一  14:1-6
出エジプト記 4:10-16
Ⅰ 神さまの代わりに

 13章でパウロは、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13:13)と、永遠なる神さまに行き着く愛を語って来ました。パウロは、私たちキリスト者に、そのような信仰と希望、とりわけ愛の世界に招かれていることを覚えて欲しいと願っているのでしょう。けれどもパウロは、もう一つの世界をも見ています。それは、愛によって秩序づけられ、人々の信仰と希望をリードする奉仕のわざ・教会を支える「御霊の賜物」の世界です。その賜物は、礼拝においてひときわ輝いていくと言えるでしょう。ですからパウロは、今ここで、御霊の賜物の最下位ではありましたが、コリント教会の人たちが夢中になっている、「異言」を取り上げようとしています。きっと、コリント教会では、いかにも自分が「信仰の人」「神さまに用いられている人」であるかのように、「異言」を話すことが流行っていたのでしょう。彼らは、異言を話すことで、他の人たちと自分を区別していました。自分には、教会役職の上位に就く資格があるのだとばかりに! 異言については、ずっと後回しにして来ましたが、パウロはここ14章で集中的に語っていますので、私たちも、腰を落ち着けてそれを見ていきたいと思います。

 「愛を追い求めなさい」(14:1)と、新しいフレーズが始まります。このフレーズは、「また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高め、預言する者は教会の徳を高めます」(1-4)と続きますが、それはパウロが、預言と異言を対比させることで、コリント教会の人たちに「愛の形」を教えたいと願ったからでしょう。異言と預言、この二つはとても似ていますが、その向かうところは対極にあり、パウロは、預言を取り上げることで、異言の何たるかを明らかにしようとしています。預言については、こんな記事があります。イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出してカナンの地に向かおうとしたとき、神さまは、民の指導者にモーセを立てました。しかし、「私はことばの人ではありません」「どうかほかの人を遣わしてください」と尻込みするモーセに、神さまは「あなたの兄アロンがいるではないか」と諭し、「あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」(出エジプト4:10-16)と言われました。「預言」は、「神さまの代わりに語る」という意味なのです。


Ⅱ ◎△$♪※¥○&%#?

 コリント教会など初期教会には、異言を重んじる人たちが多くいたからでしょうか。パウロは、預言に対抗するかのように、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神さまに話すのである」と、異言のことに触れます。異言は、神さまから聞いたことを人々に伝えるのではなく、自分の思いを神さまに申し上げる、「祈り」のことばなのでしょうか。パウロ自身もしばしば異言で祈っていたようで、「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」(18)とあります。

 先にパウロは、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(13:1)と言いましたが、きっとそこには、どんなに崇高な「天使の異言」を話したとしても、そこに「愛がなければ、むなしい」という、パウロの思いがあったのでしょう。パウロは、「やかましいどらや、うるさいシンバルと同じ」と、ディオニュソス神やキュベレ女神の神殿で、異言を含む宗教的エクスタシー状態に陥っていた(講解説教44参照)祭司たちのように、やかましいだけの異言を非難しているのです。15-16節には、「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう」とあります。異言は、解き明かす人がいなければ、だれも理解することが出来ないのです。しかし、エクスタシー状態になることは、それほど魅力的なのでしょうか。現代でもそうしたことにのめり込む人たちが多いようです。「異言」はキリスト教特有のものと考えられがちですが、他の宗教にも似たようなケースがあり、以前、名古屋でそんな光景を目撃したことがあります。現代は、意外にも、「口寄せ」のような異言が―パウロの言う異言とは違うかも知れませんが―多く見られるようです。キリスト者だけではありませんが、何人かの人の異言らしいことばを聞きますと、人によって「発声」が違うのですが、「◎△$♪※¥○&%#?(ピコパコピコパコ)」とでも言ったらいいでしょうか、話している本人にもその意味は不明なようで、解き明かす人もいないのが現状のようです。パウロはこれを預言とは区別し、「異言を話す者は自分の徳を高め、預言する者は教会の徳を高めます」と言っています。

 「教会の徳を高める」と、14章では、それがパウロの中心主題となっています。パウロは、異言は「だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話す」ことで、しばしば自己陶酔に陥りやすく、それは「自分の徳を高める」が、「教会の徳を高める」ものではないと言っているのでしょう。


Ⅲ 私たちの立つべきところは

 14章におけるパウロの中心主題は、「教会の徳を高める」ことでした。「徳を高める」とは、「造り上げる」(新共同訳)「建てる」(岩波訳)「教化善導する」(King James Version)などいろいろに訳されていますが、ここは「信仰を建てる」(NTD私訳)とするのがいいでしょう。イエスさまを主とする教会で、ギリシャ世界にはびこるあらゆる異端を排除しつつ、正統な「信仰告白」を建て上げていくのですから、パウロは、コリント教会に流行っていた(現代も同じですが)独りよがりの異端的信仰姿勢・「異言」の風潮を退け、預言することを勧めているのです。なぜなら、教会で語られるのは神さまのことばであって、預言は「神さまの代わりに語る」ことだからです。パウロはこう言いました。「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし、異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています」(5) 異言を容認する唯一の条件は、異言を語る本人が解き明かしをする場合に限られます。神さまのことばは、神秘主義的宗教思想といったミステリーではなく、知的理解を伴うものだからです。ですからパウロは、「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです」(19)と言いました。私たちも、そうありたいと願います。

 パウロは、「兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう」(6)と、このフレーズを締め括りました。「黙示や知識や預言や教え」とありますが、それがどのような内容を持っていたのか、残念ながら明らかにされていません。しかし、黙示とは啓示のことであって(新共同訳)、預言は啓示に基づき、教えは知識に基づくもので、その知識が教えられるのは教会ですから、それは人間の知識ではなく、神さまのことばに基づくとするのが妥当でしょう。すると、知識も啓示から生まれるものですから、パウロがコリント教会で話そうとしている四つ「黙示や知識や預言や教え」は、すべて「啓示」に基づくと言っていいのではないでしょうか。それなのにパウロは、この啓示を、神さまのことば・聖書とはしていないのです。このコリント書の初めからパウロの胸の内にあったのは、「十字架のことば」(1:18)=イエスさまでした。パウロにとって、啓示とは、文字ではなく、イエスさまご自身だったのです。十字架と復活のイエスさまにお会いして伝道者に召し出されたパウロは、主に愛され、熱烈に主を愛していたからこそ、カリスマ的能力・異言をもって宗教的指導者になる必要など全くなかったのです。パウロは、ただ、あのダマスコ途上でお会いし、自分を伝道者として召し出されたイエスさまを、単純に「わが主、わが神」と証言しました。その証言こそ、パウロの信仰の、真骨頂と言えましょう。私たちも、その同じところに立ちたいではありませんか。


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