コリント人への手紙Ⅰ


46
主の愛とその誠実に
コリント第一 13:8-13
エレミヤ    31:3-6
Ⅰ 愛の冷えた時代に

 コリント教会の人たちが「御霊の賜物」という役職獲得合戦を繰り広げている中で、パウロは、「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」(8)と言ってはばかりません。なぜなら、「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます」(9-10)と、彼らの目指すところは、認識し得る神さまの世界の一部分でしかなく、不完全なものに過ぎないからです。それは、御霊が不完全で、部分的であると言っているのではなく、私たち人間が不完全で、部分的なものしか見ることが出来ないと言っているのですが、いかんせん、たとえ御霊の賜物であっても、それはこの世の私たちと共にあり、流動するこの世と共に形を変え、この世が過ぎ去ると共に過ぎ去って行くからです。それは、御霊の賜物が、ひとたび人間に受け止められると、私たち人間の中で、有限かつ不確かなものに変わってしまうということなのでしょう。けれども、彼らは不完全な教会の役職を目指しました。それは、ローマ・ギリシャ世界の秩序に倣いたいとの、強い権力志向があったからです。

 そんなコリント教会の人たちに、イエスさまの福音の中心を示そうと、この13章の、聖書の中でも群を抜いて光り輝いている愛の章で愛の形を論じて来たパウロは、「愛は決して絶えることがない」(8)と、永遠の愛を提示しようとしています。それは、彼らが求めて来たグノーシス主義などの教えに欠けたものであり、彼らが求めていたものすべてに、「永遠の愛」という視点がなかったからです。「不法がはびこるので、愛が冷えていく」(マタイ24:12)と言われる現代は、更にその傾向を増しているのでしょう。そんな者たちにパウロは、決して廃れない永遠を目指して欲しいと、期待しつつ、この愛の章を書き進めています。神さまが私たちを愛して下さる愛、私たちが主を愛し、兄弟姉妹たちが互いに愛し合う愛を覚えるなら、その愛は日々新しく更新されていくことでしょう。愛は永遠の神さまに属するものであり、神さまの御国には、その愛が満ち満ちているのですから……。

 しかし、パウロの筆は、一足飛びに、私たちをその愛の世界に連れて行こうとはしません。コリント教会の人たちもそうでしたが、私たちもしばしば、自分に足りないものを数え上げられることに、非常な抵抗を覚えるからです。ですからパウロは、不完全とか一部分ということには説明が必要だと、丁寧に、二つの譬えをもって、私たちが立ち、また立とうとしているところを示そうとしています。


Ⅱ 主に拝する日を

 パウロは、「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(11-12)と言っています。パウロは私たちに、「完全な世界」「部分的ではない世界」・「永遠なる神さまの世界」があることを、知って欲しいと願っているのでしょう。

 パウロは、子どもを不完全な者、大人を完全な者と見ています。ユダヤ教は子どもを、未教育で知恵のない者と見ていました。大人が子どもの教育に責任を持たされるのは、その意味においてであり、パウロは、そんなユダヤ教の伝統を言っているのでしょう。しかし、ある意味で、大人には、子ども時代の純粋で鋭い感性といった極上の部分が失われ、代わりに、世間ずれした世的知恵や自分本位の考え方にたっぷり浸されていると言えそうです。最近、子どもの声がうるさいと、保育園建設に反対する大人のことが話題になっていますが、さて、現代人たる私たちはどうなのでしょう。「(子どもは)現に聖いのです」(7:14)と言ったパウロのことばを、噛み締めたいものです。けれども、この譬えでパウロは、大人の知恵を完全なものとして、あなたがたは本当に大人になっているのかと問いかけているのです。これは、「あなたはキリスト者として、完全なものを目指しているか」という問いかけと聞かなくてはなりません。「鏡の譬え」もそうでしょう。当時の鏡は銅板などを磨いて使っていましたので、非常に映りが悪かったのでしょう。ガラスを鏡に用いるようになったのは、1317年にヴェネツィアのガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してからだそうです。そんな現代人に馴染みのガラス製の鏡でさえ、顔と顔を合わせて拝するように、神さまの実像を映し出すことは出来ません。私たちの神さまを思う思いは、どれだけ知識を積み重ね、想像を働かせ膨らませても、不完全で、ぼんやりしたものに過ぎないのです。そこから抜け出して神さまの実像に接するには、神さまにお会い出来る御国に行く以外に手立てはありません。
 その実像の神さまを拝する日を、待ち望みたいではありませんか。


Ⅲ 主の愛とその誠実に

 ここに来てパウロは、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13)と、愛の賛歌を高らかに歌い上げました。それは、コリント教会には、まだ望みがあると思っていたからなのでしょう。彼らには、教会権力に就くことで発言力を強め、教会拡大につなげたいとの意図があったと思われる節もあるからです。今は平信徒で力もないが、役職に就くなら、聖霊も応援してくれるのではないかと期待していたのでしょうか。ただ、彼らは、ユダヤ教の教えに立ってみたり、グノーシス主義の教えを受け入れてみたり、「私はケパにつく」「私はアポロに……」と分裂分派の争いに走ってしまったりと、立つべきところを間違えていました。

 そんな人たちにパウロは、いつまでも残る「信仰と希望と愛」を示し、その中で最も優れたものは愛であると、その立つべきところを示しました。「愛」はともかくとしても、「信仰と希望」が神さまの永遠に組み込まれているのは、「神さまの全能者としての量り難い不可思議な力と、その力を実現させて来られた神さまご自身とを、あらゆる理性の反発にもかかわらず、断固として肯定して、『望みえないときに、望みを抱いて信じた』(ロマ4:18)アブラハムの信仰に倣うものである」(山谷省吾「パウロの神学」)と聞くだけで十分でしょう。パウロはこれらを、神さまから与えられた「賜物」以上の、本来的に神さまに属するものとし、その信仰と希望をイエスさまに起因するものとしているのです。パウロが、ロマ3:22とガラテヤ2:16で「イエス・キリスト信仰」(原典:「所有格信仰」と呼ばれる)―邦訳では「イエス・キリストを信じる信仰」となっている―と言い切ったのは、それが彼の信仰理解の本質であったからなのでしょう。

 繰り返しましょう。愛はもちろんのこと、信仰も希望も、永遠なるお方・神さまと、御子イエスさまに属するのです。けれどもパウロは、「その中で一番すぐれているのは愛である」と閉じました。その理由を小畑進師は、「『愛はすべてを信じ、すべてを期待する』(7)と説かれているように、愛が信仰と希望の源泉だからでしょう。それに、信・望・愛のうち、愛こそは神の本質だからでしょう。なぜなら、全知なる神ご自身に信仰は無用であり、常に永遠の今であられる神に希望・期待も必要ありません。ただ、神は愛したもうのです」(前掲書)と言っておらますが、まさしく、その通りなのでしょう。イエスさまの福音は、愛が中心なのです。先週、預言者エレミヤが、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」(31:3-4)と、神さまのことばを聞いたことを取り上げましたが、もう一度そのことばを聞き直し、誠実も希望も見えづらく、愛もまた失われて混乱しつつあるこの現代に、主の愛とその誠実に倣う者となりたいではありませんか。信仰の大先輩パウロも、「信仰と希望と愛」に立つことを勧め、愛こそキリスト者の生きる道であると宣言しました。十字架に私たちの罪を贖われた愛の主は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と、ご自分の愛に倣うよう勧めておられるのです……。


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