コリント人への手紙Ⅰ


45
永遠の愛をもって
コリント第一 13:4-7
エレミヤ   31:3-6
Ⅰ 愛の世界に

 愛の章の最初でパウロは、「愛がなければ……」と前置きしながら、イエスさまを信じる者たちの立つべきところを網羅しました(1-3)。そのような、異言や預言、山を移すほどの信仰や他の人たちへの奉仕、そして、殉教を覚悟するところにまで立ったのは、他ならぬパウロ自身でした。それなのにパウロは、そうした自分に果たして愛があっただろうかと、自問しているのです。そこに立てられている主語・「私」は、パウロ自身のことですが、「愛がなければ……」という問いかけは、コリント教会の人たちにも、また私たちにも向けられているでしょう。今、パウロは、主語を「愛」そのものに代えて、愛の世界に飛び込もうとしています。愛を主語としたのは、それが神さまのご人格の中心であり、私たちはそのお方の愛に包まれているという、パウロの認識から来ているのでしょう。その愛は私たちにも求められているのですが、ここで、イエスさまを信じる私たちの信仰を、今一度問い直していきたいと思います。

 今朝のテキストは、4-7節からです。
 ここには、「愛は……である」「愛は……でない」と、肯定と否定を含め、15の動詞が上げられていますが、それらは、愛の特質は行為であるとして、見事なまでに私たちの日常を言い表しています。それは肯定命題と否定命題に分けて語られていますが、最初に見たいのは否定命題です。愛は「人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばない」(4-6)と語られています。これを、「……ない」を除いて聞くならば、「妬み」「自慢」「高慢」……とそこに上げられる八つは、私たち人間の罪そのものを指しているではありませんか。その激しさは、「熱心に」という意味が含まれる「妬み」に最も良く現わされていますが、ギリシャ世界に大きな影響を与えたデルフォイ・アポロン神殿の祭司プルタルコスは、「人間は誰かに憎しみを抱いていることは告白するが、誰かに妬みを抱いていることは、いろいろ言い訳して、認めようとはしない」(大貫隆「グノーシス・妬みの政治学」)と言っています。そのような「妬み」を八つの否定命題の最初に置くことでパウロは、人の罪は、他者を排除してやまない高慢や怒りがどこまでも増幅していく、強烈な自己主張であると言っているのでしょう。パウロは、それらを、「愛なきもの」と否定しているのです。
 人は「他者の悲しみには寄り添うことが出来ても、他者の喜びを共有することには困難を覚える」と小畑進師(コリント人への手紙第一提唱)は言っておられますが、まさしく、その通りなのでしょう。


Ⅱ 主の憐れみと優しさの中で

 次ぎに上げられるのは七つの肯定命題ですが、奇妙なことにパウロは、これを4節前半の二つと6節後半から7節にかけての五つを、否定命題を挟んで提題しています。なぜでしょうか。
 まず、先の二つから見ていきましょう。「愛は寛容です」(4)とありますが、これは、新共同訳では「忍耐強い」、永井訳では「忍び」と訳されているところで―7節の「すべてを耐え忍ぶ」は、違うことばが使われている―、神さまの人間(とりわけ罪人)に対する怒りの鉄槌は、すぐに振りかざされることはなく、忍耐して時を待ち、赦し、私たちを救おうとされる、神さまの恩恵を言っていると思われます。救い主イエスさまを私たちに送って下さったのは、その神さまの、気の遠くなるような忍耐の中でなのでしょう。さらにそれは、十字架のイエスさまの、私たちの罪を贖うためにご自分のいのちを死に明け渡された、忍耐の中にも見られるのではないでしょうか。そして、そのような忍耐と恩恵の意識は、次の「愛は親切です」(4)にも見られます。「親切」は、口語訳では「情け深い」、文語訳では「慈悲」と訳されていますが、神さまの憐れみと優しさを指す「ことば」と聞かなければなりません。人間同士の、「互いに親切にし合う」ことではないのです。根本的に、それは神さまの私たちへの一方的な恩恵であって、その憐れみと優しさが、イエスさまのご人格となりました。「愛は、私たちを救おうとされる神さまの忍耐であり、憐れみと優しさである」と聞くなら、その「愛」は、イエスさまご自身を指すと受けとめていいのではないでしょうか。

 そのように聞きますと、この二つの肯定命題は、次に並べられる否定命題とは徹底的に対立し、人間の他者を顧みない愛のない状態と全く相反する、神さまのことであるとお分かり頂けるでしょう。
神さまの民に加えられた私たちにパウロは、さらに具体的な愛に立つよう求めます。「愛は真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(6b-7)と……。まず、「真理」のことを考えてみたいのですが、6節には、「不義を喜ばず、真理を喜ぶ」(新共同訳)とあります。不義と向かい合うのは正義であって、「愛は正義を喜ぶ」という局面が期待されるところでしょうが、パウロは、「愛は真理を喜ぶ」と言いました。真理はもともと、ギリシャ哲学では、宇宙(神々)の神秘的奥義という意味が込められているようですが、原始キリスト教神学ではそれを、「神さまの秘められた奥義・決して変わることのない神さまの真実」と言い表しています。それは、イエスさまが頻繁に用いられた、「まことに、まことに(原語では、アーメン、アーメン)、あなたがたに告げます」(ヨハネ1:51など多数)という表現に端的に現わされています。ですから、真理は、原則的には主ご自身に属するものであり、招かれた私たちの目指すところでもありますが、断じてそれは、私たちの正しさを主張するものではないのです。


Ⅲ 永遠の愛をもって

 次の四つは「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(7)とありますが、これは、「すべてを担い、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶ」という、NTDの私訳が適訳でしょう。「がまんする」は「おおう」という意味を含んでいて、「愛」は、私たちの「すべての悪」を覆い包み、赦し、担う、苦難の時の力なのです。まさしくそれは、私たちを暖かく覆い包み、赦し、担って下さる、イエスさまご自身であると覚えたいのです。私たちの一切の重荷を担って下さる主を信じ待ち望むとき、そこに、主とともにある喜びが沸き上がって来るではありませんか。そして、「すべてを信じ」「すべてを望む」は、今はまだ不十分で、鏡に映すようにぼんやりとしか見えなくても(12)、やがて主にお会いする日に、それは完全なものになっていくのでしょう。最後の「すべてを忍ぶ」(7)は、「下に」と「留まる」という二つのことばの合成語で、主のもとに憩う信仰者の平安を意味しています。ここでパウロは、「殉教→永遠の憩い」までを意識しているのですが、その究極の場で、私たちを愛して下さった主の愛は、すべてに優る力を発揮するのでしょう。十字架に死んで下さった主の愛をもう一度思い返し、その御力の陰に宿りたいではありませんか。そのように聞きますと、先の「寛容と親切」という二つの愛と、後の「真実を担い、私たちのすべてを覆って下さる、主がもたらして下さる信仰と希望と憩い」の五つは、否定命題の力に取り込まれてあえぐ私たちを、暖かく包み込んで癒やしてやまない主の愛を、象徴的に示しているのではないでしょうか。

 北王国末期に預言者ホセアは、「わたしは彼ら(イスラエル)の背信をいやし、喜んでこれを愛する」(14:4)と、主のことばを聞きました。百数十年後、バビロン捕囚という南王国滅亡の危機に直面したイスラエルに預言者として立てられたエレミヤも、主から「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」(31:3-4)と、同じメッセージを聞きました。主の愛は、主の誠実を信頼する中で聞かなければなりませんが―イスラエルの人々は、エレミヤを疑い、憎み、捕囚とされることを拒否し……、バビロンでようやくそれを学びました―、それがバビロン帰還後のエルサレム再建という希望につながったのです。しかし主は、「永遠の愛をもってあなたを愛した」と言われました。その希望は、再び散らされるような再建ではなく、十字架の赦しによって集められる、「新しいイスラエル=キリスト者の群れ」を指しているのです。いみじくも、NTD註解者が、13節を意識しつつ、「愛は信仰と希望とに溢れている」と洞察したことに重なります。現代失われつつある愛と信仰と希望に招かれている私たちも、その光栄に思いを馳せたいではありませんか。


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