コリント人への手紙Ⅰ


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主に愛されて
コリント第一 13:1-3
ホセア書   14:4-7
Ⅰ さらに優れた道を

 使徒、預言者、教師……と八つの職制リスト(12:28)には、ローマ・ギリシャの成熟した社会構造に倣うかのように第一位、第二位……という序列があって、パウロは、その序列を伴った役職がコリント教会に分裂分派の争いを引き起こしていると、嘆いているようです。「みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。……」(12:29-30)と、ぼやいています。ある意味で教会に来ていた人たちは、そうした社会構造からはみ出した、社会的弱者だったのかも知れません。彼らは、教会においてなら、第一位の使徒は無理としても、第二位以下の役職なら手が届くのではないかと、教会における「役職獲得合戦」に躍起になっていたのでしょう。キリスト教の歴史には、コリント教会だけなく、そんな傾向は現代まで続いていて、それは教会が抱えてきた闇の部分と言えるのではないでしょうか。

 そうしたことを案じたパウロは、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」(12:31)と、新しい道を示そうとしています。
 パウロは、「愛がなければ」と前置きをしながら、いくつもの事例を取り上げました。最初に取り上げたのは、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(1)と、先のリストで最下位だった「異言」のことです。NTDの註解者は、コリント第二書に「私はキリストにあるひとりの人を知っています。……私はこの人が、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っている」(12:2-4)とあるそれは、天上で天使が語ることばだろうとしていますが、「異言」は、人が語るものと天使が語るものに区別されていたようです。いづれにしても、異言は解き明かす者がなくては理解できないことばで、使徒行伝2章にある記事は、ディアスポラ帰還のユダヤ人など、外国語を話す人たちが多かった初代エルサレム教会の、特殊な事情を指していると思われます。しかし、コリント教会の人たちにそれは魅力あるものに思われ、人々を宗教的深みに引き込む異言というものに、関心を強めていたのでしょう。

 「やかましいどらや、うるさいシンバルと同じ」とありますが、これは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神・ディオニュソスの神殿や、アナトリア半島・フリギアで崇拝されて古代ローマやギリシアにも広がった、大地母神キュベレ女神の神殿で打ち鳴らされる銅鑼やシンバルのことで、キュベレ女神に仕える祭司Corybantは狂楽乱舞をもって儀式を執り行い、英語のCorybantic(狂楽乱舞のという形容詞)はそこから出たそうですが、いづれも、神々への礼拝時に、エクスタシー状態に陥って半狂乱となって銅鑼やシンバルを打ち鳴らし、それを目撃したパウロが、「愛がなければ、たとい異言といえども、銅鑼やシンバルに等しい」と言ったのでしょう。コリント教会の一部の人たちにとって、礼拝行為は、エクスタシー状態に陥ることだったのかも知れません。


Ⅱ みことばに基づいて、しかし……

 「愛がなければ……」と前置きして、パウロが二番目に取り上げた事例はこうです。「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(2) ここには、「預言」と「あらゆる奥義と知識」と「完全な信仰」という、一見ばらばらに見える事例が並べられていますが、別格の使徒を除きますと、「預言」は神さまのことばを取り継ぐリスト第一位の職制で、「あらゆる奥義とあらゆる知識」は、グノーシス主義の中心教理と対比されるイエスさま福音の中心(2:6-10)であり、「山を動かすほどの完全な信仰」は、イエスさまの教え(マタイ17:20)を指していますが、「預言者」が使徒、教師と並べられたように、「預言」と「あらゆる奥義とあらゆる知識」と「完全な信仰」は、「御霊の賜物」として、神さまのことばを伝え教える務めに要約されるもので、いわゆる「聖書信仰」というジャンルに属するのではないでしょうか。きっとそれは、みことばに教えられる知性の人・パウロ自身の信仰姿勢なのでしょう。これまでにもパウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(1:18)と、「ことば=知性」に拘って来ましたが、私たちも、宗教改革以降、福音主義という聖書信仰の伝統に拘っています。イエスさまを信じる信仰は、断じてエクスタシーでも、得体の知れない霊を恐れるアニミズムやシャーマニズムでもありません。それは、銅鑼やシンバルや太鼓を打ち鳴らして忘我の境地に入る、宗教的悟りではないのです。「みことばに基づいて……」、それこそ私たちの信仰姿勢であると、改めて覚えたいと願います。けれども、そこには、主に愛された、その愛をもって互いに愛し合うことがなければならないのです。「愛がなければ、何の値うちもない」のです。

 そして、三番目にパウロは、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(3)と、自分の信仰者としての在り方に言及しています。「貧しい人たちに」ということばは補足で、本文にはただ「全部を分け与える」とあるだけですが、それだけに、持ち物を「分け与える」行為は、信仰者としてのパウロの愛のわざであり、主に献げる信仰の香りだったのでしょう。その信仰姿勢は、「私のからだを焼かれるために渡しても」とあるように、殉教にまで行き着きます。


Ⅲ 主に愛されて

 このように見て来ますと、この三つの事例には、パウロの意図が感じられるようです。第一の事例は、エクスタシーという宗教的感性でイエスさまを信じる信仰を表明するものですが、現代でも、一部の人たちに、そのような感覚的信仰を最高の信仰姿勢としているケースが見られるようです。パウロは、「私が……」と言うことで、そのような在り方を咎めてはいませんが、それを最低ラインと位置づけているのでしょう。第二の事例は、「みことばに聞く信仰」ですが、特に宗教改革以降、これこそ私たちのイエスさまを信じる信仰の牙城ではないかと、パウロの思いが伝わって来るようです。第三の事例では、「貧しい人たちや弱い人たちへの配慮」が掲げられますが、それは、エルサレム教会以降、教会の麗しい伝統でした。そして最後に、主の証人としての殉教という、究極の立ち位置まで取り上げられますが、ここでは、教会の秩序は、単なる職制によるものではないと言っているのでしょう。すると、職制リストの最下位から最上位まで、更に究極の殉教というところまで並べて、それでも「愛がなけば」主は喜んで下さらないのだと、そんなパウロの意図が伝わって来るではありませんか。

 けれども、その愛の行為には、愛とは正反対の、憎しみや妬みがつきまとうことも覚えなくてはなりません。愛の行為が憎まれる? だれに?と、不思議に思われるかも知れませんが、しかし、愛の行為の裏には、必ず、憎しみや激しく嫉妬する者の影が見え隠れしているのです。それはサタンです。サタンの憎しみは、愛の行為が純粋であればあるほど激しくなって来るのではないでしょうか。ネロ帝やドミティアヌス帝のキリスト者迫害も、それに近い出来事でした。ネロ帝は、自ら火をつけたローマ大火のスケープゴートとして、キリスト者たちを犯人に仕立て上げたと言われていますが、それでもキリスト者たちが恭順に殉教して行く様を見て、彼の怒りは、一層燃え上がったのではないでしょうか。パウロが殉教を覚悟したのは、焚刑となったユダヤ人の姿を思い浮かべてのことだそうです。パウロは、十数年後、ネロ帝のもとで殉教するのですが、そんな殉教でさえ、パウロは、「愛がないなら、何の値打ちもありません」と言い切っています。NTDの註解者は、それを、「神さまの恩恵や報酬を伴うことはないという意味」と指摘していますが、それはパウロの、主の愛の証人として殉教する者を主は受け入れて下さるという、確信を指しているようです。「愛がないなら」と言われるその「愛」は、十字架の主が私たちを愛して下さったその愛のことでしょう。先週、預言者ホセアが「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」(14:4)と聞いた神さまのことばをもう一度聞くことで、「愛されている」ことの意味を自分自身に問いかけていきたいと思います。主に愛されているその愛を、信仰と祈りに加えながら……。 


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