コリント人への手紙Ⅰ


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主の愛に応える者と
コリント第一 12:21-27
ゼカリヤ     2:6-13
Ⅰ ひとつからだに

 先週パウロは、教会を一つのからだに譬え、ローマ・ギリシャの世界に建てられた諸教会、特にコリント教会が、「公同の一つの教会」として立つように願ったと聞きました。その願いのもとでパウロは、それらの教会に、「イエスさまの共同体としての教会」ということの意味を知って欲しいと思ったのでしょう。「キリスト教会」というところは、人種的にも性格的にも異なった人たちの集まる場所であり、その群れ自体も、地域や民族や国によって特色が違っています。そんな相違点ばかりが目立つ教会を、それでも「公同の一つの教会」と覚えるために、多くの器官が有機的に結び合わされた人体は、うってつけのサンプルでした。人はもともと神さまに造られたのですから……。「からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っている」(14)と、からだを譬えに教会を説明し始めたパウロは、「こういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです」(20)と結論づけました。しかし、教会内には(恐らく教会間にも)一致どころか、分裂分派の争いや、弱い人たち(あるいは教会)を排除するようなところがあり、コリント教会は、その代表例だったのでしょう。現代の教派や教団を中心とする教会にも、そうした弱さを排除するようなところが見受けられます。けれども教会では、強いとか弱いとか立派な……という、世間一般の価値観が適用されてはならないでしょう。実際、歴史上では、立派な会堂を建て、多くの人たちを擁した教会でさえ、そのほとんどが消えているのです。現代の私たちは、そのことを肝に銘じておかなければなりません。

 そんな問題が絶えない教会に向かって、パウロは言いました。「そこで目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません」(21)と、これは新しい提題です。コリント教会には、愛餐に食べ物を持って来ることの出来ない貧しい労働者たちや、分裂分派の争いからさえもはみ出して、教会が居心地の悪い所になっていた人たちがいたのです。けれども、パウロはこう続けました。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(22)と。弱い器官が何を指しているかは不明ですが、パウロは、教会の欠陥や不完全さ、弱さを承知していました。教会はキリストのからだではありますが、地上の教会であり、完成された天上の教会ではないのですから、弱さがあって当然なのです。弱さは不必要などと断じて言うことは出来ないばかりか、弱い人たちを受け入れてこそのイエスさまの教会、「公同の一つ教会」なのではないでしょうか。


Ⅱ 調和のために

 「また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです」(23-24)とパウロは、見栄えのしない人たち(あるいは教会)を、神さまが重んじ、用いて下さることに言及しました。これは、12章初めからの中心主題、「聖霊の賜物」という神さまの恩恵のことを言っているのでしょう。そのように聞きますと、個々人に与えられた「知恵のことば」「知識のことば」「いやしの力」等々と指摘された、「賜物」を見る目も違って来るのではないでしょうか。その「力」は、生まれつき備わった「自然の能力」とか、個々人の努力によって身についた「鍛錬の賜物」ということではなく、「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださった」(18)とパウロが言うように、神さまご自身でもある内在の聖霊が、そのお働きに私たちを関与させようとして、手や足のように、目や耳や口のように……、尊く用いて下さるのです。それこそまさしく「聖霊の賜物」である、と聞かなければならないでしょう。

 その賜物は教会に招かれた者たちの「調和」のためでしたから、知恵や知識を与えられた者たちは、その知恵や知識をみなの信仰が高められるように用い、御霊による信仰を与えられた者たちは、知恵や知識をはるかに超えた高みでの信仰をもって主を賛美し、賛美と感謝と祈りが献げられるべき公同の礼拝を、イエスさまを信じる信仰ではない、別のことで乱さないようにしなければなりません。いやしや奇跡の賜物を与えられた者たちは、教会の人たちを人間社会の常識から解き放ち、大きな慰めと励ましをもたらすことでしょう。科学にすがる現代という時代にも、その力は有効であると知らなければなりません。そして、「預言」のために召し出された者たち―みことばを解き明かし、霊を見分ける者たち―は、その賜物を、聖徒たちが一つ信仰に結ばれて主に喜んで頂くために、礼拝や愛餐や交わり、みことばの学びにおいて用いるのです。その学びは、必ずや、教会に招かれた者たちを一つ心にして、「イエスさまは主である」との公同の信仰告白に導き、その告白をより深く確かなものにして行くことでしょう。

 異言については、これも大切な御霊の賜物で、「賜物」の中心的位置を占めているようですが、異言を振り翳すことには、当時も弊害が大きかったようです。これについては、14章で異言よりも預言を大切にしなさいと詳しく取り扱われますので、そこで扱うことにしましょう。


Ⅲ 主の愛に応える者と

 パウロは、神さまは「劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださった」(24)と、コリント教会の人たちを教え諭しました。「調和」とあるのは、不協和音に明け暮れていたコリント教会の人たちに、「御霊の賜物」の相乗効用を暗示しつつ、弱い人たちを尊く用いようとされる神さまの恩恵を、教会ぐるみで覚えて欲しいと願ったからでしょう。それは、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです」(25)と言われているように、イエスさまから愛された愛をもって、お互いを包み合うためでした。「からだの中に分裂がなく」とありますが、コリント教会では、分裂分派の争いに明け暮れる状況が、日を追って激しくなっていたのです。「互いに愛し合うよう」に教えられてはいましたが、その愛は、ギリシャの哲学者たちの「知恵を愛する(フィロソフィーはその意味)」という観念的な愛、グノーシス主義的異端に偏った中身のない愛であって、独占欲や自己満足に満ちていました。そのような愛は現代にも見られるではありませんか。しかし、パウロが示した愛は、ギリシャ人たちが求めたものとは決定的に違っていて、それは、十字架のイエスさまから聞き、倣うべきものでした。コリント教会もまたイエスさまの名が冠せられた群れであり、彼らにも、その愛が求められていたのです。パウロは、その愛の人を包み込む暖かさを、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(26)と表現しました。苦しみと喜びと……その豊かな愛は、イエスさまというお方そのものであると伝わって来るではありませんか。

 その意味で、「からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つからだであるように、キリストもそれと同様です」(12)、「一つのからだとなるように、一つの御霊を飲む者とされた」(13)、「器官は多くありますが、からだは一つなのです」(20)等々、何度も繰り返されて来たことが、もう一度繰り返されます。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(27)と、これがパウロ教会論の中心主題でした。

 そのように聞くとき、教会は、イエスさまがご自分の死をもって贖われたからだとしての群れであり、目や耳や手や足など多くの肢体を有しているが一つからだであって、それは、「イエス・キリスト」という名が冠せられたイエスさまというお方そのものであると、繰り返し繰り返し繰り返し宣言される群れなのです。教会は、イエスさまが私たちを愛して下さる愛の広がりの空間であり、愛だけが求められる場であると伝わって来ます。断じて自己主張の場ではないのです。預言者ゼカリヤは、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」(2:8)と、その愛を見事に言い当てました。神さまのひとみになぞらえられるほど愛されている私たちです。イエスさまの愛に応える者となれるよう、私たちの生き方を整えたいではありませんか。


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