コリント人への手紙Ⅰ


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愛に立つ者として
コリント第一 12:12-20
詩  篇      4:1-8
Ⅰ 公同の信仰告白を

 前回、「イエスさまは主である」と告白する個々人の信仰告白は、本来、イエスさま共同体である教会に集約されるもので、その公同の信仰告白が個々人の告白を支えていくと聞きましたが、少し訂正しておかなければなりません。イエスさまを信じると告白する信仰告白は、イエスさま共同体で吟味されて練り上げられ、「公同の信仰告白」として整えられていくものであり、個々人の信仰は、そこから流れ出ていくのです。その伝統は、個々の教会によって強調点が違うなど、若干異なる部分もあり、また、しばしばそれは公式化、形式化されてしまう危険性もあって、実際、そうした罠に捉えられた時代が過去に何度もありました。しかし、たとえ一握りの聖徒たちによるものであったとしても、その「公同の信仰告白」は、現代にまで脈々と受け継がれて来たのです。私たちは、その系譜を引き継いでいると言っていいでしょう。ところで、その「公同の」という認識は、二世紀中頃に出て来たものであろうとされ、現在も多くの教会で用いられている「使徒信条」の「われは公同の教会を信ず」もそれに基づいています。ちなみに、そこから、紀元100年ー590年(教皇制を定めたグレゴリウス一世のローマ教会監督就任)までを、近年、「古カトリック教会時代」と呼ぶようになりました。カトリックとは、「公同の」という意味です。

 迫害の時代を生き延びた古カトリック教会は、やがてコンスタンティヌス大帝のもとでローマ帝国公認の宗教となり、ローマ教会を主軸に、大教団へと膨らんでいきました。そして、313年に帝国の首都をコンスタンティノープルに定めたところから、ローマ教会を中心とする西方教会とは別に、コンスタンティノープルに建てられたアヤソフィア教会を中心に東方教会グループが並び立ち、やがて東西教会は対立、分裂していくことになります。東方教会は素朴な信仰を継承することで「正統」と呼ばれて来ましたが、西方教会からはみ出した異端的な人たちを受け入れるなどして、ロシア正教やギリシャ正教などに見られるように、独特の神学など異質の教会文化を形成し、キリスト教の歴史では、主流からはずれた存在となってしまいました。そんな東方教会の衰退を尻目に、西方教会は帝国教会としての地位を拡大して行きます。西方教会は、ローマ・カトリック教会を名乗りましたが、やがてそれは教皇を立てるなど司祭団を頂点にしたピラミッド型の権威主義に陥り、「公同の」と言う認識も形式化し、典型的な意味で教会運営のみに走ってしまった、悪しき例と見ることが出来るでしょう。西方教会は、カトリック・「公同の」ではなく、「ローマ教団」と呼ぶべきものと考えます。真の意味での「公同の信仰告白」は、「聖書に帰る」を合い言葉に信仰体系を打ち建てた、宗教改革者たちの系譜を引き継いだ信仰告白であって、私たちもその信仰を引き継ぐ者でありたいと願います。


Ⅱ 一つ身体に結ばれて

 さてパウロは、「イエスさまは主である」とする「公同の信仰告白」を、ローマ・ギリシャ世界に建てられた諸教会に確立したいと、まず最初に、「教会」ということの意味を知って欲しいと願いました。「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(12-13)とパウロは、イエスさま共同体を一つのからだ、諸教会はそのからだの一部と譬えました。

 これまでにも、教会が畑や建築物に譬えられていましたが(3:9)、有機体という意味では、人体に勝るものはありません。からだの譬えはギリシャなど古典文学では頻繁に用いられ、ストア派の哲学者たちも、共同体での奉仕や義務にそれを用いていたようです。ギリシャ哲学に通じていたパウロがそれを取り入れたとしても、おかしくはありません。ところがパウロは、各地に建てられた多くの教会を、一つの責任共同体として、便宜的にギリシャ古典文学から「一つからだ」を引いてきたのではなく、ここではイエスさま共同体の有機的一体性を強調している、と聞かなければなりません。つまり、「キリストを頭とする全教会は、一つの人格と見なされている」とNTD註解者が洞察したように、イエスさまと全教会、そして聖徒たちの人格的結合こそ、「一つからだに」という譬えの中心的意味なのです。その中核に聖霊がおられることは言うまでもありません。知恵や知識、いやしや奇跡を行なう力など、パウロが先に上げた九つの「御霊の賜物」も、個々人や個々の教会をイエスさまに結びつける「霊的かすがい」であると聞こえて来ます。それらは人により教会によって不具合な機能となることもあり、それを避けることは出来ませんが、コリント教会が抱えたいろいろな問題も、その辺りのことなのでしょう。が、しかし、それも(それこそと言っていいでしょうが、)全人格の一部なのです。ですからパウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされた」と言いました。イエスさまに結びつくとき、ユダヤ人やギリシャ人、男や女、若者や老人という、あらゆる人間的違いや弱さは消し飛んでしまうばかりか、バプテスマはキリスト者になるための通過儀礼ではなく、イエスさまに結びつく新たな誕生を示す、御霊の印であるとお分かり頂けるでしょう。


Ⅲ 愛に立つ者として

 「一つの御霊を飲む者とされた」とこれは、聖餐を意識してのことと思われますが、これも通過儀礼ではなく、イエスさまを信じる人々の集う教会が御霊によって一つの教会とされたとする、教会の根本的立ち方への言及と聞かなければなりません。そこでは、個々の肢体の機能の違いにも関わらず、「一つからだ」が強調されているのですが、むしろ、違いがあるからこそ、教会の原則的一致の勧めと聞き取れるでしょう。

 その違いは、次のように語られています。「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。ひかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を供えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」(14-20)

 コリント教会内における個々人の違いは、「自分たちは優れた者」という主張とともに、不協和音を生じていました。その優越意識は、自分を他よりも大きく見せたいとする、生存本能によるのかも知れません。自然界の動物にはそんな傾向が見られます。まして、もともと知恵や能力の無かった者たちが、自分たちを知恵ある者、他に優った「ある者」としてコリント教会に分裂分派の争いを引き起こしている中では、一層、「目は耳に優る」「耳は鼻に優る」などといった、謂われのない優越感がそこかしこに漂っていたとしてもおかしくはないでしょう。

 けれども、だからこそ、教会には「愛」が必要でした。13章が「愛の章」であるのは、当然の帰結と言えましょう。その愛には、十字架で贖罪となって下さったイエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われたように、上下関係や優劣意識など、生じる隙間のあろう筈がありません。愛の広がる所に不平等はなく、民主主義の理想とされる平等すらありません。互いを認め合い、赦し合う交わりだけが深められて行くのです。それこそ「イエスさまは主である」と告白する者たちの、拠るべき一つからだ・教会なのです。しかし、ときには不協和音が生じることもあるでしょう。が、それは、教会が有機体であるが故に起こることで、それを共同体破壊行為とは受け留めず、祈りの対象にしていくのです。「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました」(詩篇4:1)とあります。「ゆとり」は「広い所」を意味しています。愛に立つ者として、そんな祈りを広げて行きたいではありませんか。


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