コリント人への手紙Ⅰ


40
御霊に励まされつつ
コリント第一 12:4-11
イザヤ書  40:27-31
Ⅰ 美しいハーモニーを奏でて

 パウロは、「御霊(みたま)の賜物」について踏み込みました。本論の第一フレーズが、展開されます。
 まず、前段落です。「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です」(4-6)と、御霊の賜物は、個々人の「奉仕=特に食卓における世話」や「働き=力ある業としての活動」に凝縮されていくのですが、それは、「みな(教会)の益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです」(7)というものでした。「すべての人の中ですべての働きをなさる」と、これも同じです。「神は……同じ神」と、これについてはあとで触れますが、ここでは、恐らく、教会を混乱に陥れていた、愛餐について言っているのでしょう。貧しい人たちを排除し、持ち寄った肉やぶどう酒を腹一杯詰め込むなど、愛餐をともにする者たちの取るべき姿勢ではありません。愛餐に限らず、教会はイエスさまの共同体であって、互いに愛し、信仰の徳を高めることに心を注ぐところなのです。そのための奉仕や働きであって、そのための賜物が個々人に与えられていると聞かなければなりません。

 次ぎの段落にはこうあります。「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています」(8-10) この御霊の賜物については、小畑進師が簡潔にまとめておられますので(前掲書)、それを借用したいと思います。
 1、知的賜物―・知恵のことば、・知識のことば
 2、信仰的賜物―・信仰自体、・いやし、・奇跡、・預言、・識別力(霊を見分ける力)
 3、異言的賜物―・異言自体、・異言解明(異言については、14章で詳しく取り扱われる)
 「信仰自体」とは、「公同の信仰告白」のことです。「信仰は個人的なもの」という悪しき風潮が宗教改革者カルヴァン以降拡散してきましたが、個々人の信仰は教会に集約され、公同の信仰告白が個々人の告白を支えていくのです。その図式は、イスラエルの伝統に基づいた、パウロ神学から始まったと見ていいでしょう。すると、この九つの賜物も、教会で行われる集会の益となるための賜物と聞こえて来ます。これほど多岐に渡る個々人への賜物は、教会の機能がさまざまに分科していることを示しているようです。それは主ご自身が編成されるオーケストラの美しいハーモニーにも似て、その主をほめたたえる賛美の壮大さに、心奪われるではありませんか。


Ⅱ 恵みを賜う方

 ところでパウロは、なぜ「御霊の賜物」に拘っているのでしょうか。いいえ、パウロは、「賜物」よりも、賜物を与えて下さる聖霊に拘っているのです。しかも、ここには、「御霊は同じ御霊」(4、8、9)、「主は同じ主」(5)、「同じ神」(6)とあって、パウロは、古代最大の神学者・アウグスティヌス(紀元354~430)の、神さまを「三位一体」のお方とした提唱を先取りするかのように、「御霊」は「主」であり「神さま」であるとしています。明らかにパウロは、「賜物」を付託するお方を重要視しているのです。それはパウロが、「賜物」は神さまから出て来るものであると、そのことに気づいて欲しいと願っているからです。ですからパウロはここで、聖霊の正体に触れようとしています。ここでは、三位一体の「神さま」と「主」と「聖霊」について、考えてみたいと思います。

 まず、「神さま」のことです。パウロは、多くは語っていませんが、「神さま」を、ユダヤ教の神観を引き継いで、万物の創造者としての根源、あらゆる生の生成であり帰結するところ―永遠から永遠まで―のお方としています。ロマ書には、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神にいたる」(11:36)とあります。ただ、私たちが「神さま」を覚えるとき、それは神秘的霊感などの直接的交流によるものではないことに、注意しなければなりません。イエスさまを「世」に送って下さったのは、私たちへの神さまの恩恵であり、イエスさまの十字架は、神さまの義と愛を現わすためでした。神さまは、イエスさまを通して、「愛の神」としてのご自身を顕されたのです。このお方を「われらの神」と告白し得るのは、唯一イエスさまを通してなのだと、これがパウロの神観論点の中心と言えましょう。

 そして、「主(キュリオス)」は、ユダヤ教が神さまへの呼称としており(パウロ自身も数カ所でそのように用いている)、またそれは君主や神々にも適用されましたが、パウロは、イエスさまを指し示す尊称としてこの「主(キュリオス)」を用い、ときにはイエスさまのみを指し示す固有名詞として、イエスさまを「主」と呼びました。コリント第一書には、「唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけです」(8:6)とあります。イエスさまは「世に遣わされた神さまのひとり子」であり、神さまのことばを具現化される「啓示者」であり、十字架に象徴される神さまの救いのご計画の「実現者」であり、何よりも、イエスさまを信じた者たちが集うキリスト者の礼拝で「主」と崇められ、賛美と喜びが献げられるお方であると……。その意味でイエスさまは、「われらの主」なのです。


Ⅲ 御霊に励まされつつ

 さて、「聖霊」についてですが、パウロは、「聖霊」と「神さま」と「キリスト」を、それぞれのお働きに違いはありつつも、この三者は同一のお方であると繰り返し、「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(11)と、結論づけました。これは「同じ唯一の”霊”」(新共同訳)と訳されるべきもので、「聖霊」は、唯一の、この世界を舞台に活躍しておられる「神さま!」である、と言っているのでしょう。それは、コリント教会の人たちが、グノーシス主義の異端的神論に囚われていたからです。彼らの思い描く聖霊は原始宗教的な精霊でしたし、神さまも偶像の神々のひとりでした。キリストは天空の星々(アイオーン)の一つであって、グノーシス主義は、当時、高度な先進的宗教思想ではありましたが、多神教でしかなかったのです。そこには、救いをもたらす十字架の恩恵はなく、レベルの高い道徳律が育つ下地もなく、教会についても、御国の鍵を握るエクレシアという視点は生まれて来ません。そもそも、創造者にして全能者たる神さまを見つめ、また十字架と復活のイエスさまを見つめる「内住する聖霊の目」が育つ余地など、全く欠如していたのです。そんな者たちにパウロは、内住する聖霊を、「同じ唯一の”霊”」と表現しました。「今は聖霊の時代」と言われていますが、それは、万物を創造された全知全能の神さまがイエスさまの陰に隠れたように、贖罪と恩寵のイエスさまが聖霊の陰に隠されていることを指しているようです。パウロは、彼自身に内住する「聖霊」の目をもって、コリント教会の人たちにも、内住し働きたもう「聖霊」の恩恵と賜物を見つめ、覚えて欲しいと願っているのでしょう。

 ですから、パウロがここで、コリント教会の人たちにどうしても覚えて欲しいと願っているのは、「聖霊」のことでした。このお方については、コリント第一書で、「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けた」(2:12)、「最後のアダム(イエスさまのこと)は、生かす霊となった」(15:45)とある以外、特に説明していませんが、ルカが聖霊降臨の出来事を著わし(使徒2章)、その降臨を自ら体験したヨハネが、聖霊のお働きはイエスさまの現在化であると言っているように(14:26)、パウロは、聖霊のお働きを、聖徒たちに内住して神さまのことばを具現化する、神さまの力であると言っているのです。そのお働きは、私たちが生きているこの歴史上においてである、と聞こえて来るではありませんか。イザヤ書に、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:29-31)とあるように、この混沌とした現代においても、「神さま!」のいのちは漲り、力が溢れているのです。そのお方に励まされつつ、広く高いところを見つめ、これから後に必ず襲って来るであろう苦難と忍耐に満ちた行程を、希望を持って走り抜こうではありませんか。


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