コリント人への手紙Ⅰ



主が寄り添ってくださって
コリント第一 1:18-25
エレミヤ  15:19-21
Ⅰ パウロ神学の神髄を

 先週、「イエスさまの十字架を見つめるなら、そこには人を救う神さまの力が満ち満ちていて、心がわくわくと弾んで来る。教会を満たす互いの愛も、主の十字架から沸き上がって来るものであると、パウロは、コリント教会の人たちに、十字架の愛に立ち戻ることを期待している」と聞きました。今朝は、そのことを叫んでやまない、パウロ神学の神髄とも言えるところに入ります。

 今朝のテキストの冒頭に、こうあります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(18) 以下、25節までの段落は、このパウロ神学を補足し、説明するものでしょう。パウロは第一に、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」(19)と、イザヤ書のことばを、ギリシャ語の七十人訳から引用しました。そこには、「そこで主は仰せられた。『この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。』」(イザヤ29:13-14)とあります。パウロは、「愚か者」を、口先では神さまを崇めるが、その心は神さまから遠くに離れている、と規定しました。人間的に見れば、それが知恵ある者、悟りある者(七十人訳は賢い者)のあり方と言えるでしょう。知恵はギリシャ的ソフィア、悟りはそれより一段も二段もランクアップされたものを指しますが、そこに、「人間の命令」とありますから、ユダヤ人を想定しているのかも知れません。彼らが神さまを恐れるのは、律法によるのです。きっと彼らは、そんな知恵や律法をもって、神さまを尋ね求めたのでしょう。そして、ある者たちは「神(神々)に到達した」と言いましたが、悟りとは、その意味なのでしょうか。しかし神さまは、そんな人間の知恵や実験などで見出せるお方ではありません。パウロは、こう締めくくりました。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵によるのです。」(20-21)と。

 この世の知恵と神さまの知恵、ここにパウロは、イエスさま福音のアイロニーを込めました。この世の知恵は、神さまの知恵に照らされると、万物の霊長などと嘯いて光輝いていると思っていても、他人のものを奪って食べる猿知恵、暗やみの中を蠢くものでしかないのだと……。私たちは、神さまの知恵を、覚えなければなりません。


Ⅱ 神さまの知恵に変えて

 この世が断固認めようとしない、神さまの知恵が啓示されました。イエスさまです。ヨハネは、先在のロゴスが地上に遣わされ、人の子となって私たちに愛を示された、と証言することから初めましたが、パウロは、イエスさまの十字架から初めようとしています。パウロは、「十字架のことばは……」と、世に住む、決して交わることのない、相反する二種類の者たちに向かって問いかけました。「二種類の」とは、十字架を愚かと聞くのか、救いに至る神さまの力と聞くのか、の二種類の者たちのことです。「ことば」は、ヨハネが指し示したロゴスを意味し、神さまの知恵を全身全霊で受け止めた、イエスさまを指しているのでしょう。その全ご人格をもってイエスさまは、十字架にお掛かりになりました。そのイエスさまの十字架は、私たちに決断を迫っています。それを愚かと見るか、神さまの力と見るのかと。それによって、私たちの滅びと救いが決まるのです。

 十字架を愚かとする者は、キリスト教二千年の歴史を通して、福音を、あらゆる人間の知恵に変えようと試みて来ました。その試みは、まず、コリント教会に見られます。パウロから教えられたイエスさまの「ことばと知識」(5)、それはロゴスであって、イエスさまの全ご人格を指すものですが、彼らはそれを、異端・グノーシス主義の、「ことばの知恵」(17)に変えてしまったのです。これはギリシャ的哲学思想で、20節にある「学者」は「律法学者」のことですから、恐らく彼らは、ユダヤ人の律法主義をも含め、イエスさまの福音を、人間の「宗教思想」にしてしまったということなのでしょう。そして、中世のローマ・カトリック教会は、トマス・アクイナスのアナロギア・エンティス(存在の類比)を中核とする、アリストテレスの形而上学に基づいた、スコラ神学を取り入れました。そもそも、形而上学自体、理性が認める視点に立って物事を考えることですから、イエスさまによらなくても、人間の理性で神さまの存在に到達することができると、神さまと人間の溝を埋める媒体として、教皇と司祭団という組織と教えを正当化し擁護するものなのです。パウロが言う、イエスさまを通して神さまに至るという迂回路を、彼らは否定してしまったのです。そして、近現代の自由主義神学者たちも、イエスさまのよみがえりなど一切の奇跡を認めず、合理的な解釈を施して、人間イエスというところにまで神さまを貶めてしまいました。そんなケースは、歴史の中で、枚挙にいとまもありません。しかし、パウロは、叫んでいます。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と。


Ⅲ 主が寄り添ってくださって

 パウロは、コリント教会の人たちの前に、主から召し出された伝道者、牧者、啓示者として立ちました。神さまご自身がそのように立っておられるからです。この「神さま」を、パウロは、イエスさまと区別していません。それは、パウロの意識の中でしばしば見られるものですが、囚人として船でローマに護送された時、嵐の中でこう言っています。「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』」(使徒27:23-24) 彼はその神さまの立ち方を、こう言います。「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかしユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(21-25)

 ここには、神さまの「愚かさ」「弱さ」という言い方が目立ちますが、その意味を探ってみたい。
 「愚かさ」も「弱さ」も、言語的にはごく普通の言い方で、特別な意味はないようですが、これを「神さまの……」とする時、一つは、理性をもって他の動物に勝る賢さと強さを手に入れたとする、人間と対比するように用いられているのでしょう。神さまの賢さと強さは、人間の基準とは異なるのだと。そしてもう一つは、逆説的な言い方ですが、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Ⅱコリント12:9)とあるように、「愚かさと弱さ」は、神さまの啓示の場所なのです。それはきっと、十字架を念頭に置いてのことでしょう。コリント第二書では、こうも言っています。「(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストととも生きているのです。」(13:4) ここには、神さまは「愚かで弱い」者に寄り添って下さったのだとする思いが見られるようです。十字架は、その典型的なしるしではないでしょうか。そして、「(神さまは)宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」と宣言されたことも……。パウロは、そんな主に倣うかのように、言いました。「(コリントで)私はすぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」(2:1-3)と。まさに、「十字架のことばは、救いを受ける私たちには神の力」なのではないでしょうか。その信仰に倣いたいではありませんか。



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