コリント人への手紙Ⅰ


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「わが主。わが神」と
コリント第一 12:1-3
申命記  32:15-18
Ⅰ 立つべきところは?

 12章からパウロは、新しい問題に取り組みます。これは14章の終わりまで続きますが、「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていただきたいのです」(1)と、取り扱われるのは「霊の賜物」ということです。パウロの問題意識の中には、「言い伝え」(11:2)というユダヤのラビたちが用いて来たことばがあって、初代教会―パウロにとってそれは、異邦人教会として誕生した母教会・シリヤのアンテオケ教会が意識されている―から受け継いだ教会伝承を守り抜き、後世に伝えて行くことを意味しているのですが、そこには、明確な「礼拝における信仰継承」という姿勢が見られます。その信仰継承の第一に婦人のかぶり物、第二に聖餐と愛餐が語られました。「霊の賜物」は、三番目に継承していくべき事柄なのでしょう。

 「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、偶像の所でした。」(2)とパウロは、コリント教会とともに、ローマ・ギリシャ世界の教会の多勢を占めるギリシャ人たちを意識しながら、語りかけています。かつて彼らは、当然のことながら、神々の神殿に出入りする者たちでした。コリントで有力な神殿といえば、ローマによって破壊された紀元前146年以前には千人の娼婦を擁していたと言われる、アフロディテ女神(ローマ名ヴィーナス)の神殿ですが、再建されたそれはパウロの時代にはかなり縮小していたようで、それでもかつての名声も手伝ってか、依然として名高い神殿だったようです。コリント教会の人たちが不品行を咎められたのも、このアフロディテ神殿と関わりがあったのかも知れません。もっとも、パウロはそのことに言及していませんので、想像に過ぎないのですが……。

 それより、託宣で有名なデルフォイのポイボス・アポロン神殿ほど知られてはいませんが、コリントにも託宣を重要な特色とするアポロン神殿があって、パウロは、このアポロン神殿に拘っていたようです。パウロが言う「(あなたがたが)引かれて行った所は、偶像の所でした」は、そのアポロン神殿を指しているのでしょう。「ものを言わない偶像」とはいえ、啓示にも似た託宣が行われていたアポロン神殿に詣でていたコリント教会の人たちは、習慣的だったとしても、その託宣を聞き、限りなくそれに依存していて、恐らく、教会に来た今も、その託宣との関わりを断ち切ってはいなかったのでしょう。パウロは、そのような人たちに、「キリスト者が最も立たなければならないところ」を教えたいと願ったのです。


Ⅱ ありとあらゆる神々にではなく

 パウロは今、聖霊の賜物を取り扱おうとしていますが、その序文とも言えるこのフレーズで、「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」(3)と、締め括りました。パウロがここで「イエスは主です」とする肯定的な面と「イエスはのろわれよ」とする否定的な面の二つを提題としているのには、「イエスさまを信じたキリスト者たる者は、その立つべきところに立とうとするのか、そうではないのか」との、問いかけがあったと思われます。最初に考えたいのは、その否定的な面についてです。

 「イエスはのろわれよ」とこれは、「木につるされた者はのろわれた者である」(申命記21:23)と教えられていたユダヤ人が、「もしキリストなら、十字架から降りてみよ。そうすれば信じるから」(マタイ27:42)と十字架のイエスさまを嘲ったもので、その影響を受けたコリント教会の人たちが、十字架につけられたイエスさまを「のろわれた者」と見ていたことが念頭にあったのでしょう。彼らが陥っていた分裂分派の中に、「キリスト派」と呼ばれる人たちがいたこともその延長と思われます。ユダヤ人教師たちに影響されたばかりでなく、グノーシス主義の異端的神学に囚われていたコリント教会の人たちは、救い主キリストは、滅ぶべき肉体を纏った「のろわれた存在」であるはずがなく、天空のアイオーンともいうべき神々の列に加えられるべき方であるとしていました。肉体をもって世に来られたイエスさまの神性を否定し、霊の存在としてのみ救い主キリストを信じる「キリスト派」のそれは、多くの神々や先進的異端教説を支持する者たちの、教説の一つだったのでしょう。彼らはイエスさまを、歴史上における神さまの啓示とは見てはいませんでした。彼らにとっての啓示は、神殿で受ける神々の託宣だったのです。けれども、申命記32:17や詩篇106:37に出て来る「悪霊」ということばの原語(シェーディーム)は、異邦の神々を指すときにも用いられていて、パウロは、偶像崇拝(神々への礼拝)を、イエスさまに敵対する悪霊への礼拝としているのです(10:20-22)。

 ですからパウロは、「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』とは言わない」と言いました。「語る」とは証言を意味し、「イエスはのろわれよ」という証言しか生まれて来ないなら、それは神さまの御霊から出たものではなく、悪霊によるものではないかと、これがパウロの問いかけでした。悪霊から出て来るイエスさまへの呪い、それは、あなたたち自身への呪いではないかと……。


Ⅲ 「わが主。わが神」と

 しかしパウロは、こうも言いました。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」 「イエスさまは主である」とこれは、原始キリスト教以来、信仰の先輩たちが心を込めて表明して来た、最も古くシンプルな信仰告白の一つです。世界各地には、数え切れないほどの、「われこそは……」と主張して止まない救済者たちがいますが―しばしばそれはキュリオス(主)と呼ばれ、王であったり神々であったりと、時代や地域によって変遷して来ました―、この信仰告白は、それら無数の者たちを押し退け、唯一のまことの救い主イエス・キリストだけに献げられるのです。そのお方は、十字架上で私たちの罪の贖いとなり、死に囚われることなく復活し、今も生きて私たちに永遠の恩寵を与え、再臨の約束とともに、私たちを神さまの御国へと招いて下さるのです。時代時代に人々が生きて来た歴史と神さまの住まわれる永遠とを貫いて主・キュリオスであられるお方……、そのお方に、死んだ者たちも生きている者たちも、雲をなす天使たちも、地に咲く草花も、もの言わぬ石までが、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」(ルカ2:14)とこぞって賛美してもなお足りないこのシンプルな信仰告白には、多様で豊かな内容が込められているのです。そのお方は、たとえ現代の、衰退の一途を辿っている教会の小さな礼拝においてでも、私たちからほめたたえられ、賛美されることを喜び、望んでおられるのです。

 しかし、パウロがその信仰の思いの全てをこのことばに込めたように、私たちも、これほどシンプルな信仰告白をすることが出来るでしょうか。先に上げた申命記には、「神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ」(32:17)とありますが、もの言わぬ偶像の神々が、意外にもこの21世紀に、職場やTVの情報等、あるいは科学や教育の現場を隠れ蓑に、社会の隅々にまで猛威を振るっていることをご存じでしょうか。いや、正確には、それは、真の神さまならぬものに傾斜していく現代人の内面にまで入り込んで来た、サタンと悪霊の働きなのでしょう。その時代にすでに猛威を振るっていた悪霊の力に対抗するようにパウロは、「(もし)聖霊によるのでなければ」と、聖霊のお働きに言及しました。ここには、「もし」ということばが入っているのです。私たちの内に聖なるお方が内住しておられるのかと、何度も問いかけてみなければなりません。私たちのカノン=基準が聖霊からのものであるか、悪霊からのものであるか、その判断は極めて単純でしょう。私たちから「イエスさまは主である」とする告白が出て来るなら、それは聖なるお方によるのです。「もし……」との文言は、私たちの告白にかかってくる問いかけだと、聞かなければなりません。パウロが語った順序はまさにその通りで、告白は聖霊のお働きによるのですが、あえてその順序を逆にすることで、聖霊のお働きが見えて来るのです。悪霊は、その告白を阻止するためにあらゆる手段を講じているのですが、私たちは、イエスさまを「わが主。わが神」と告白してやまない信仰に、堅く立っていようではありませんか。


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