コリント人への手紙Ⅰ


36
主の祝福のうちを
コリント第一 11:17-22
詩 篇   118:21-29
Ⅰ あなたがたの集まりは?

 今パウロは、コリント教会が抱えているいくつもの問題の、最も中心的な問題を取り上げようとしています。彼らの問題のすべては、「聖餐」に対する意識の混乱から来ていると考えたからです。ですからパウロは、聖餐の原点に立ち戻り、そこから始めようとしています。

 けれども、「聖餐」を扱うパウロの姿勢は、極めて慎重です。恐らく、コリント教会の人たちは、聖餐の根本的な意味を見失っていたのでしょう。そんな人たちにいきなり「聖餐とは」と説明しても、彼らには宗教儀礼としか受け止められないだろうと、それは絶対に避けなければならないことでした。聖餐は、断じて宗教儀礼ではないのですから。そこでパウロは、前段階として、いくつかの問題を取り上げることから始めました。今朝のテキストは、その「聖餐」の説明の、序文に当たります。

 パウロはまず、コリント教会が陥っている重大な問題点を並べました。第一のことです。
 「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません」(17)と、これは11:2の「言い伝えを守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います」に対比させているのでしょうが、「あなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません」(22)と、これを序文の締め括りに重ねています。ここでパウロは、コリント教会を褒めないばかりか、糾弾されなければならないと問題点を浮き彫りにし、強調しているのです。きっと彼らは、パウロの「ほめない」の繰り返しを聞いて、「どうして?」と思ったのではないでしょうか。それは彼らに、コリント教会開拓者・パウロから「ほめられたい」という、切実な願いがあったからでしょう。そんな彼らに、パウロはさらに、「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」(17)と切り込みました。これは「聖餐」が彼らの集まりの中でおろそかにされているという、20節以下の彼らの「主の晩餐」糾弾に結びついているのですが、もう一つの、現代的な意味も込められているようです。

 現代、一部の教会には、「教会は人が集まるところ」という意識があります。極端な言い方ですが、そんな意識ばかりが先行して、「何のために集まるのか」という大切な問題が、どこかに置き忘れられているように思われます。恐らく、コリント教会も同じだったのでしょう。宣教とは人を集めることだとばかりに、あの手この手を模索しています。もちろん、礼拝が行われ、賛美や祈り、聖書朗読やメッセージもありますが、それらはまるで、教会に来た人たちへのサービスのようではありませんか。礼拝を「サンデイ・サービス」とする英語表記には、強烈な違和感があります。覚えて頂きたいのですが、人が集まるだけでは教会と呼べず、礼拝が行われていても、心を合わせて主を崇め、賛美と祈りとメッセージが神さまに向かうものでなければ、そこはイエスさまの教会とは呼べないのです。今まさにコリント教会は、そんな状況にありました。しかし、初めて教会に来た人たちは、そこで人々の神さまに向かう姿勢を見て、神さまを見つめるようになるのではないでしょうか。「あなたがたの集まりはどうか」と問われていると、私たちも絶えず覚えなければならないでしょう。


Ⅱ 祈り人たちが

 第二のこととしてパウロは、「あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます」(18)と、教会内の「分裂」を上げました。これは1:11以下で取り上げられたことですが、そこではすでに多くのページを割いて、いろいろな角度から分派の解消を願って来たからでしょうか、ここでパウロは、何の説明もせずに、ただ「分裂があると聞いているが、その証言を信じる」と言うだけに留めました。ある註解者たちは、ここは、富者と貧乏人という別の分裂が発生したことに絡めているのではと言っていますが、パウロはこれも「主の晩餐」に連動するとして、20節以下の記事に関連させようとしています。

 けれどもここに、それとは異なる人たちのことがパウロの念頭にあったようです。
 「ある程度は、それを信じる」とは、情報が不十分であっても、これは信頼する人たちから聞いたことであると、良識派の人たちがいたことを暗示しています。そのような良識派の人たちは、分裂分派の争いに加わらないばかりか、教会の現状と将来を本気で心配していて、教会が正常の姿に戻ることを願っていました。ところが、分裂分派の争いに熱中している当事者たちには、その人たちもまた自分たちに仇なす別の分派でしかなく、パウロがここで「分裂」の詳細を明らかにするなら、第一に攻撃され傷つけられるのは、そうした人たちだったのでしょう。同じレベルの分派ではないからです。コリント教会の信仰の灯を消してはならないとパウロは、分裂の詳細を伏せました。「というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです」(19)とあるのは、恐らく、そんな良識派擁護のためでした。

 先にパウロは、婦人たちに、ヴェールを着け静かに坐って祈ることを勧めましたが、この良識派の人たちは、そんな祈り人に重なるようです。ごく少数と思われますが、コリント教会にはそんな人たちが興されていました。この書簡の最後に、ステパナやクロエの家の者と思われるポルトナト、アカイコの名が挙げられていますが(16:15-18)、恐らく彼らへのものと思われる励ましが、次のように語られています。「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(15:58) コリント教会がどんなに激しい嵐に巻き込まれていても、主はその人たちの祈りを聞いて救い出して下さると、パウロの確信にも似た思いが伝わって来るではありませんか。


Ⅲ 主の祝福のうちを

 パウロが取り上げた第三の問題は、聖餐を含めて行われる愛餐会で、醜い欲望がむき出しになっているということでした。パウロは、「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません」(20-22)と、その愛餐風景が、キリスト者としてと言うより人として正視するに堪えないものである、と断じています。この愛餐はユダヤ人の過越しの晩餐に重ねられていると触れましたが(講解説教16)、それは、神さまがイスラエルをエジプトから救い出してくださったことを覚えて、神さまへ感謝と賛美を献げつつ行われる神聖な祭儀でした。その食事は各家庭で行われましたが、「神さまの前で」とそれは、礼拝そのものでした。「愛餐」はイエスさまの十字架の恵みを示す聖餐を中心とするものでしたから、主への感謝と賛美が心を込めて献げられなければなりません。教会で持たれる愛餐は、愛に溢れ楽しいひとときですが、同時に、主の前で広げられる聖なる交わりであると覚えなければなりません。

 それなのに彼らの愛餐は、飲めや歌えのドンチャン騒ぎです。そこには「神さまの前で」とか「イエスさまの恵みを覚えつつ」など、全く意識されていません。市場で買い求めた「偶像に供えた上等の肉」や大量のぶどう酒が並べられたそこは、まるで宴会のようです。一説に、愛餐は貧しい人への慈善として行われていたとありますが、富んでいる者が自分たちの欲望を満たすために、ありとあらゆる美食を腹に詰め込む様子は、ローマ貴族の飲食風景を思わせます。その食卓からは、貧しい人たちだけでなく、イエスさまさえもはじき出されているのです。イエスさまの教会に、そんなことがあっていいものでしょうか。堅苦しい礼拝が終わったとばかりに、礼拝後の愛餐が歯止めのない宴会に走ってしまったとするなら、何のための礼拝だったのかと、礼拝の意味さえなくなってしまいます。愛餐は礼拝の一部なのです。過越しの食事では、詩篇の118篇が読まれ歌われたそうです。「主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。……」(26)と。わずかなパンさえ事欠く人たちがいる現代です。主の祝福に与った私たちは、そうした人たちを覚えて祈り、感謝しつつ日々の歩みを進めていこうではありませんか。


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