コリント人への手紙Ⅰ


35
一つ思いを目指して
コリント第一 11:7-16
創世記    2:18-25
Ⅰ 補い合う男女と

 「婦人たちにヴェールを着けるようにという勧め」を取り扱った2-16節のフレーズの、前回は2-6節を見てきました。ヴェールを着けなさいという婦人たちへの教えは、イエスさまを信じる信仰をどこかに置き忘れていた男性たちのために、婦人たちに坐って静かに祈ることを教えたものでした。それは、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会だけでなく、ヴェール着用云々はともかくとしても、現代の私たちに対する勧めでもあると聞かなければならないでしょう。カトリック教会では、今も婦人たちはヴェールの代わりにハンカチを頭に乗せて礼拝を守っているそうですが、その意味と姿勢も、外面だけの宗教的敬虔や単なる習慣でなければ、一考に値することかも知れません。

 その教えをパウロは、教会内の「秩序」という観点から構築しましたが、今朝のテキスト7-16節ではさらに、「教会の秩序」を中心主題に、議論の強化を図っているようです。

 神さまの創造物語にはこうあります。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。……その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』……そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:6-24) これは、イスラエルにおいて長い時間が重ねられた後、1章とは別にあった資料(恐らく「ヤハウェ資料」)に手が加えられたものなのでしょう。ですからここには、男女間の愛情や葛藤などの機微までが詳しく取り上げられています。「男と女」では分かりませんが、原語では、「イシュ(男性形)から取られたのだから、イシャ(女性形)と名づけよう」とあって、「ふたりは一体となるのだ」という文脈で読まれなければなりません。パウロがここで言っている「秩序」から、それぞれの特性で互いを補い合うのだという文意が、伝わって来るではありませんか。パウロは、こう続けました。「男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」(7-9)


Ⅱ 愛のうちに

 きっとコリント教会では、男性と女性の不協和音が続いていたのでしょう。それは、婦人たちの発言力が大きくなっていたことや、男性が婦人たちを低く見てその発言を封じてしまったことで、結果、対立が……、という構図が生まれたとも考えられます。が、それよりむしろ、それぞれがお互いの優れたところを見ようともせず尊重もしない中で、批判ばかりが飛び交っていたためと思われます。

 パウロの視野にあった女性は、既婚者、寡婦、未婚あるいは婚約中の乙女という三種類だけでしたから、彼は、男性と対等に丁々発止やりあう現代風の職業婦人という存在自体を知りません。ですから、パウロが婦人云々を論じるとき、必ずと言っていいほどその視界の先には、男性がいるのです。しかもその男性は、イエスさまを信じる信仰にしっかりと立ち、教会を背負う者たちでした。しかし、その男性たちが、いくつもの党派に分かれて自分の意見ばかりを主張し、争っているのです。そんな様子を見ていた婦人たちは、ことの本質を見抜けず、自己修正も出来ない男性たちが歯がゆくてならず、つい口を出して、余分な不協和音が生まれてしまったのでしょう。そんな不協和音は、2000年の歴史を通して、地域に建てられた教会がいつも抱え続けて来た問題です。ですからパウロは、こう勧めなければなりませんでした。「女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためです。とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています」(10-12)と。

 10節については、非常に難解な箇所とされていますが、いくら考えても分かりませんので、ここはカルヴァンのことばを紹介するに止めましょう。「女があたまのおおいをかけないならば、キリストがその放埒ぶりをごらんになるばかりでなく、天使たちもその証人となるのである。」(前掲書) カルヴァンの鋭い註解から、ヴェールも着けず、祈ることも忘れてしまったジュネーブの女性たちを見たカルヴァンの、教会の将来を憂える嘆きが伝わって来るようです。婦人たちは男性たちを気遣って、彼らのために祈り、男性たちは彼女たちを愛し、その祈りに応えていく。イエスさまの教会は、互いへ愛で成り立って行くのです。その愛は、イエスさまが男のためにも女のためにも十字架に死んで下さった愛なのですから……。「しかし、すべては神から発しています」とは、その意味なのでしょう。


Ⅲ 一つ思いを目指して

 パウロは、婦人たちのヴェール着用を念頭に、男女の髪について繰り返します。
 「あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。」(13-16)

 「男の長い髪は恥ずかしいこと」であると、これは、当時の男たちが短髪だったことを指しています。古い時代には、ギリシャの戦士たちも長髪でした。恐らく、鋭く繊細な刃物は黒曜石を割ったときに出る鋭い破片しかなく、散髪技術も発達していなかったからでしょう。それが、刃物の発達とともに散髪技術も向上し、戦いや労働などに従事する男性の活動は短髪を要求するようになって、次第に短髪が男性世界の趨勢となっていきました。ユダヤでも、「ナジル人は髪にカミソリを当ててはならない」と言われるように、通常の男子は短髪でした。そして、短髪の男性とは対照的に、女性の長い髪は、大昔から、東洋ばかりでなく、世界のどの地域でも守られてきたのです。女性の長い髪は、彼女たちを美しくしているのです。その美しい髪をヴェールで覆うとき、隠された長い髪はその美しさを神秘的なまでに高め、彼女たちの内面までも光栄と尊厳に輝かせたのではないでしょうか。この男女の髪の長さは、ギリシャ人やユダヤ人を意識するまでもなく、「神さまが創造された世界の秩序」でした。パウロが用いた「自然」は、その神さまの秩序を指していると聞かなければなりません。

 もちろん、その時代にも、長い髪を個性とする男性もいましたし、ショートカットの女性たちも見受けられたでしょう。現代は特にその傾向が顕著です。けれども、男性の男性たる特徴は、あくまでも精力的に活動することであり、女性の最たる特徴は、静かに坐って祈ることなのです。たとい見掛け上の特徴が逆転していたとしても―現代社会はその逆転が日常化する傾向にありますが―、神さまの秩序は、男女の麗しい長所を主張してやみません。少なくとも、教会での男女の立ち位置は、神さまの秩序の中でと思うべきではないでしょうか。いえ、主の名が冠せられた教会は、そんな秩序云々より、神さまご自身の御旨を探り、それを第一とする信仰に立つところなのです。このフレーズでパウロが、婦人たちにヴェールを着けるように勧めたのは、むしろ男性たちに、「しっかり立ちなさい」と励ますためではなかったかと思われます。女性たちがヴェールを着けて静かに坐っていられるためには、教会が彼女たちにとって、居心地の良いところでなければなりません。争いが彼女たちに祈りを……と言えなくもありませんが、彼女たちの祈りを、教会本来の働き(宣教等)のために、必要不可欠なものにしなければなりません。不協和音は、たとえ男女間のことでなくても、教会にはどんなにふさわしくないことかを思い、「ふたりは一体となるのである」と、心を込めて聞きたいではありませんか。


Home