コリント人への手紙Ⅰ


33
キリストを写し出す者に
コリント第一 10:23-11:1
詩 篇         4:1-8
Ⅰ 自己中心ではなく

 7章1節に「あなたがたの手紙に書いてあったことについて」とあるように、パウロは、コリント教会の人たちの手紙にあったいくつかの質問に答えて来ました。11章からパウロが語りかけようとする対象は、ローマ・ギリシャ世界に建てられた異邦人教会にまで広げられます。その意味で今朝のテキストは、質問への回答の最終章と言えるでしょう。8章から続いて来た、「偶像に供えられた肉を教会に持ち込んで食べる」ことの可否が扱われます。

 パウロは、「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」(23-24)と、問題の中心を見抜くことから始めました。ユダヤ教の律法や神々への供物を食べるなど、あらゆる束縛から解放されて自由を手に入れたとするコリント教会の人たちの自信は、その教会生活まで「自由に振る舞う」ようにさせていました。「自由」は彼らの信仰のスタンスだったのです。しかし、そのスタンスの核心部分には大きな問題があって、パウロはそれを、極端なまでの自己中心と看破したのでしょう。ですからパウロは、「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」と言ったのです。それは、愛に根ざす教会の原則であって、特に異邦人を中心とする教会の、重要なスタンスだったのでしょう。教会は「信仰共同体」とでも言うべきところで、そこでは、イエスさまの恩恵に与ったという愛の一致、「心を一つにして祈り」(使徒1:14)、「一つのパンを食べ、杯を飲むという聖餐を守り」、「福音の証人となる」など、主の教会の原則が覚えられなければなりませんが、パウロはそれらを11章以降の課題とし、ここでは、キリスト者の倫理の問題だけを取り上げます。

 まず第一にパウロが取り上げたのは、「良心」という問題です。「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです」(25-26)と。ここには、「もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい」(27)と、個人の家に招かれたときのことも扱われていますが、それは、教会生活には市民生活の相当部分も含まれるとする、パウロの意識によるのでしょう。


Ⅱ 信仰の良心に立つ

 「市場で売っている肉」とありますが、市場とは、中東世界で今も賑わっているバザールのことで、ありとあらゆるものが小さな店先に積み重ねられ、吊されています。中には得体の知れないものも山のように置かれていますが、その中から極上の肉を……と望むなら、少々高値でも、神々の祭壇から取り降ろしたとされる肉を買い求めるのが、最良の選択でしょう。それは、神々の神殿の祭司たちが売りに出したものだったからです。もちろんパウロは、市場のそんな事情を承知していましたが、それなのにここでは、「良心の問題として調べないで食べなさい」と勧めています。

 「良心」という用語は、ヘレニズムの世界で広く用いられていたもので、「悪しき心」に対応するように、「善い心」という意味を色濃く持っています。この用語は、コリント第一書8章と10章の「偶像に供えた肉を食べる」問題を扱う中で、集中的に9回(8章に3回、10章に6回、パウロ文書中14回)も用いられていますから、この問題に取り組むときに、パウロが選び出した用語なのでしょう。それは、コリントというギリシャ世俗社会で、人々から称賛される「善い心」を重んじる価値観を培った人たちが、その価値観を持ったまま教会の一員になっていたからではないでしょうか。これは、そんな人たちを配慮しての表現と思われます。彼らは、教会の人たちにおいしい肉を食べてもらおうと、高価な肉を選んで買って来ました。恐らく彼らも、この肉が異教の神々に供えられたものと承知していたのでしょう。けれども、自由な魂を獲得した者にとって、そんなことは取るに足らないことだったのです。彼らの思いは、仲間を喜ばせることだけに向けられていたのではないでしょうか。

 ところが、一目で上等と分かる肉を見たある人が、「これは偶像にささげられた肉ではないか」(28)とすっぱ抜きました。きっと、「上等でおいしい肉=供物の肉」は、人々の暗黙の了解だったのでしょう。それなのにその人は、教会の聖餐を含む愛餐の席で、「偶像にささげられた肉」という言わずもがなのレッテルを、その肉に張ってしまったのです。パウロは言いました。「(あなたがたの良心の問題として)いちいち調べないで食べなさい。しかし、もしだれかが、『これは偶像にささげた肉です。』とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です」(28-29)と。上等な肉のあれこれを詮索しなくても、感謝しておいしく食べるなら、それは愛餐の席を暖かくしますが、神々への供物だとはっきりするなら、「弱い人」たちの信仰の?良心は、それを食べることに躊躇するのではないでしょうか。果たしてその人が、信仰から出た良心でそう言ったのかは、疑問が残るところですが……。


Ⅲ キリストを写し出す者に

 ここでパウロは、「私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか」(29-30)と、まるで強い人に同調するかのように、奇妙な言い方をしています。その真意はどこにあるのでしょうか。NTDの註解者は、「強い者たちがパウロに異議をとなえたのを、そのままの形で引用したのかもしれない」と言っていますが……。彼らは、彼らの自由が他の人の良心という価値観のもとに置かれることを、絶対に認めようとはしません。それは、極めて問題ではないでしょうか。しかし、弱い人たちにも問題はあるのです。パウロは弱い人たちを思いやる人でした。けれども、キリスト者の価値観は、「強い」とか「弱い」という中でではなく、主の愛を思い、神さまの御心を第一とするところに育つものではないでしょうか。

 ロマ書にあるパウロのことばをお聞きください。
 「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。……神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。……キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。……私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のことで、神のみわざを破壊してはいけません。」(14:13-23)

 「良心」というヘレニズム世界の用語が教会内で用いられるとき、それは、イエスさまの恩恵に与った者たちの、神さまの前に立つという価値観を確立することであって、「信仰の良心」と言い換えてもいいでしょう。その意味でパウロはここに、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(31)という一文を加えました。パウロが「神の前にも人の前にも責められることのない良心」(使徒24:16)、「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人」(Ⅰテモテ3:9)と言うとき、それは、「神さまの前に立つ信仰の良心」を基準としているのです。そのスタンスに照らすなら、パウロが「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから」(32-33)と言ったことも、理解出来るではありませんか。信仰の良心は、他の人に心を留めるからです。パウロは、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」(11:1)と締め括りました。先輩たちがそうであったように、私たちも「キリストを写し出す者」になりたいですね。そんな先輩たちの信仰の連鎖の中で、十字架の主に出会ったのですから……。詩篇四編に、「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ」(3-4)とあります。「静まれ」と聞こうではありませんか。


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