コリント人への手紙Ⅰ


32
十字架からの祝福と
コリント第一 10:14-22
申命記    32:15-21
Ⅰ 賢い者となって

 前回10:7-13でパウロは、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです」(6、11)と、その始めと終わりに二回繰り返していますが、モーセに率いられて約束の地カナンを目指したイスラエルは、バアルの祭壇の前でモアブの娘たちと交わり、エドムの民を恐れて道を引き返し、挙げ句の果てに「エジプトの肉鍋が恋しい」「神さまは自分たちを荒野で殺そうとしている」「もうこんな放浪生活はたくさんだ」などと言ってモーセと神さまに逆らい、ついにヨシュアとカレブだけを残して、六十万余のイスラエルの民は排除され世代交代させられてしまったではないかと、コリント教会に警告しました。しかし彼らは、あらゆることから解放されて自由になったとばかりに、その放埒な立ち方を改めようとはせず、パウロの介入に反発しました。

 パウロは、コリント教会の人たちの立ち方が、姦淫やつぶやきに堕落し、エクスタシーに陥るなど、それは唯一にして全能の神さまを捨てて、神々の宗教の虜になっていることではないかと指摘しました。「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」(14)とこれは、7節の「偶像崇拝者となってはいけない」を繰り返すことで、偶像に接触することの危険を強調したのです。

 先にパウロは、コリント教会の人たちが、すべてのことから自由にされたとばかりに、偶像に供えた肉を食べて弱い人たちのつまづきになっていたことを咎めましたが(八章)、ここでパウロは、何が中心に据えなければならないのかという、コリント教会の問題点を鋭く把握していましたから、ただ「偶像礼拝を避けなさい」と警告するだけでは彼らに十分に伝わらないと、よくよく承知していたのでしょう。この問題はもっと踏み込んだところで語られなければならないと、パウロは、「私は賢い人たちに話すように話します。ですから、私の言うことを判断してください」(15)と、彼らの自尊心に訴えました。「賢い人」とは、コリント教会の分裂分派の争いに巻き込まれた一部の人たちが―彼らはもともと、弱く貧しく教育も不十分な者たちでしたが―、教会に来て、今まで聞いたことも想像したこともなかった福音に接したことで、聖書や宗教のあらゆる知識をまるで吸い取り紙のように吸収し、これでもう自分たちは無学な者ではないと誇っていた彼らへの、皮肉でもあったのでしょう。けれども、ここはむしろ、真のキリスト者なら、本当に賢い者となって、主のご計画や敵対者の策謀を見抜こうではないかというパウロの、願いを込めた期待だったのかも知れません。


Ⅱ 一つの聖餐に招かれて

 コリント教会で偶像礼拝の問題が大きくなっていたのは、教会内に異教との関わりを持つ人たちが多くいたからでしょう。その関わりが何なのかパウロは具体的には言っていませんが、異教の供え物である肉を持ち込むなど、聖なるものである聖餐を破壊させるほどのことが起こっていたと思われます。パウロが、「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(16-17)と聖餐の原則に言及したのは、その聖餐が混乱していたからに他なりません。この記事は、パウロがコリント教会で礼拝ごとに行なっていた聖餐の意味を補足するもので、通常の状態ならこれで十分だったのでしょうが、これだけでは足りないと、続く11章で最も古いとされる聖餐への言及を紹介しました(11:23-26)。そこにはこうあります。「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」(11:27-28)「空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきをうけることにならないためです」(11:34)……と。彼らの混乱が、聖餐を巡るものであったことは間違いありません。

 パウロの聖餐の神学は11章で学びますが、ここでは、コリント教会が分裂分派の争いに明け暮れていたからでしょうか、聖餐を意識しながら、「私たちは一つのからだです」と、そのことだけが語られています。それは「キリストのからだにあずかることではないか」と言われているように、教会の一員だからクリスチャンであるとか、一つ会堂に集まっているから一つの群れではなく―コリント教会の人たちはそのように理解していた―、十字架に死なれたイエスさまを象徴する唯一の聖餐に招かれたから、その恩恵のゆえにキリスト者であり、「一つである」と言っているのです。聖餐が教会の中心と言われる所以です。パンとぶどう酒という順番が、ぶどう酒とパンという順番に変えられているのは、この「一つ」がこのところの中心主題だからでしょう。それにしても、聖餐が「祝福の杯」と呼ばれていることは、注目に値します。「祝福の杯」とは、ユダヤ教で食事の終わりに飲む杯のことだそうですが、パウロの意識はそこに端を発しているのでしょうか。以前、聖餐が「感謝」と呼ばれていたと触れましたが、それとの混用で、古くから聖餐は「祝福」とも呼ばれていたようです。主の祝福を頂く私たちにとって、まことにふさわしい呼び名ではありませんか。


Ⅲ 十字架からの祝福と

 そんな「聖餐」を、コリント教会の人たちは、十字架に死なれたイエスさまの群れとして行うものとは別なものにしてしまいました。「肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか」(18)とあります。「祭壇にあずかる者・祭司」は、供え物を食べることで、神さまに結ばれていました。コリント教会の人たちは、祭壇になぞらえた聖餐に異教の神々に供えられた肉を加えることで、イスラエルの祭司のようになっていたのです。それは、唯一にして真の神さまにではなく、偶像の神々に結びつくものした。

 「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう」(19-22)とパウロは、いよいよ本題に切り込みます。

 パウロは、「偶像の神々は元来存在しない。その祭壇に供えた物を食べたところで、それは何の害ももたらさない」と言って来ました。その意味では、パウロとコリント教会の人たちは同意見でした。ところが、そこに牙を研ぎながら隙を窺っている悪霊が絡んで来ると、問題は全く違って来ます。前回触れた通りです。パウロは、「坐っては飲み食いし、立っては踊り狂った」と、金の仔牛像の前でエクスタシー状態になり、バアル・ペオルの神々の像の前でモアブの娘たちと交わったイスラエルの人々に、コリント教会の人たちを重ね合わせ、それは悪霊の前に跪くことだと警告したのです。今パウロが、聖餐をなし崩しにするものではないかと悪霊を持ち出したのは、コリント教会の人たちが、主の聖餐を守りながら、一方では異教の神々に供えた肉を買い、聖餐の場でそれを食べていたからではないでしょうか。それは愛餐の席においてでした。当時の聖餐は一緒に食卓を囲む愛餐の中で行われていましたが、やがてそれらは切り離され、聖餐は「聖餐式」として、宗教的儀式に堕していきました。もし彼らが、そんな肉を食べることなど、イエスさまを信じる信仰を害することではないと嘯いていたとするなら―それは、キリスト教は愛の宗教なのだから、そんなことを問題にするのはおかしいと嘯く、現代人そのものの姿勢ですが―、あまりにも主を軽んじることではありませんか。十字架からの祝福である聖餐を心を込めて守り、私たちを妬むほど愛して下さる主に(申命記32:15-21)、心からの信仰と誠をささげたいではありませんか。


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