コリント人への手紙Ⅰ


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一つ信仰に立つことを
コリント第一 10:1-6
ヨシュア記   1:1-9
Ⅰ 救いのご計画を

 分裂分派の争いから、近親相姦などという不道徳や神々の祭壇に供えたものを食べるということまで、コリント教会の問題は、ギリシャ世界に入り込んでストア哲学と結びついたグノーシス主義神学の自由思想に影響され、あらゆる束縛から解放されて自由になったとする、彼らの行動規範によるものでした。彼らにイエスさまの福音に立ち戻って欲しいと願ったパウロは、コリントで開かれていたスポーツの祭典・イスミア大会を持ち出すなどして(9:24-27)、いろいろな角度から説得を試みましたが、まだ何か足りないと感じているのでしょう。そこでパウロは、とりわけユダヤ人たちに馴染み深い、旧約聖書の世界に彼らを誘いました。問題の中心には、ユダヤ人、特にコリント教会の教師となったパリサイ派の人たちがいたからなのでしょうか。今朝は、10章からです。

 「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(1-4)
 この故事は、イスラエルの20歳以上の成人男子六十万余が、エジプトを脱出して来たときのことです。これは、コリント教会の人たちが、パリサイ人教師のもとで何回も聞いていました。「雲の下」は、「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(出エジプト13:21-22)とある「雲の柱」を指し、「海」は、「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこでイスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった」(同14:21-22)とある出来事を指しています。パウロは、この雲の柱と海を神さまの秘儀(サクラメント)と捉え、「モーセにつくバプテスマ(洗礼)」としているのです。

 またパウロは、「御霊の食べ物を食べ」「御霊の岩から飲んだ」と、もう一つの出来事に触れますが、それは、「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。」(同16:35)、「『さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。』そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」(同17:6)とあることを指し、それをもう一つのサクラメント「聖餐」としています。


Ⅱ 私たちの信仰が

 イスラエルの人たちは、これらのことを目撃し体験したことで、神さまのご臨在を覚えることが出来、神さまに愛され支えられ守られていることを実感したのでしょう。この後イスラエルは、神さまの選びの民として歩むことになります。これは、神さまの導きの範例となりました。

 これらは、イスラエルをひな型とした、神さまの全人類に対する救いのご計画における一つの設計図であって、「彼らは御霊の岩から飲んだ。その岩とはキリストである」と言われるように、それは、イエス・キリストの全教会で、イエスさまによる救いを思い起こしながら礼拝ごとに繰り返されて来た、聖礼典「洗礼と聖餐」となりました。それは、聖徒たちを現在から世の終わりまで「ともにいる」と言われた(マタイ28:20)臨在の主に委ねるもので、イエスさまのものとなった者たちは聖なる神さまの民・イスラエルに連なるのだ、とパウロは言っているのです。NTDは、「パウロはそれを、洗礼と聖餐において終末論的に実現されるものの予型ないし予表とみなしている」と註解しています。

 洗礼と聖餐、それは、2000年にも及ぶ教会史の中で、「聖礼典(教会儀礼)」として連綿と続けられて来ましたが、恐らくそれは、極めて早い時期から、全教会で(コリント教会でも)行われていました。しかし、聞きたいのは、彼らと私たちが、この聖礼典をどのように受け止め、どのように守って来たのか、あるいは、どう守って行こうとするのかという点です。プロテスタント教会の聖礼典は「洗礼と聖餐」の二つだけですが、ローマ・カトリック教会は、伝統的に、洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚と、七つを正教会の守るべきサクラメントとしています。これらは、12世紀のペトルス・ロンバルドゥスという神学者によって定められたそうです。

 こう聞きますと、「洗礼と聖餐」はイエスさまご自身によって始められたものですが、そこに様々な理屈をつけ、細かな規定やサクラメントを次々と加えていったのは、人の世の常でしょう。ローマ・カトリック教会のサクラメントは、宗教儀式という色合いが極めて強いように思われます。そして恐らく、大部分のプロテスタント教会で行われている聖礼典も、儀式に偏って、似たようなものになっているのではないでしょうか。これは、聖礼典がどうのという問題ではなく、現代、私たち全教会の、イエスさまを信じる信仰が問われることではないかと思われます。


Ⅲ 一つ信仰に立つことを

 パウロは嘆きました。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないためです」(5-6)……と。パウロは、このテキストで五回も「みな」ということばを用いていますから、六十万余の人たち全員が目的の地に入ったと聞こえますが、そうではありません。ある者たちはエジプトの肉鍋が恋しいと嘆き、男も女も姦淫に走り、不平をつぶやき、神さまに反抗し、そのために「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされ」てしまいました。四十年後、イスラエルが目指すカナンの地に自分たちの国を建ち上げたとき、エジプトを出て来た者たちで残っていたのは、モーセの従者であった、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの二人だけでした(民数記14:28-30、38)。モーセやアロンでさえ、その地に入ることは叶わなかったのです。

 イスラエルは四十年も、シナイ半島とネゲブの荒野を放浪しなければなりませんでした。それは、神さまがご自分の民とされたイスラエルが、神さまを全面的に信頼するという、一つ信仰を共有出来なかったからです。長い年月をかけて彼らは、国を建て上げるのに最も必要な互いへの信頼と忍耐を、学ばなければならなかったのでしょう。彼らは、イスラエル六十万余を脅威として敵対する他民族にも打ち勝たなければならず、何よりも、彼らを導いて下さる神さまへの信頼を構築しないでは、一つ思いになることは出来なかったのです。その苦労の一つ一つが、次世代のイスラエルを育てて行ったのでしょうか。四十年という長い時をかけて、少しづつですが、目的地に向かう備えが整えられていきました。

 モーセ没後、後継者ヨシュアがイスラエルの指導者となり、カナン進軍の緒に着きますが、そのとき、神さまは「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある」(ヨシュア記1:9)と励まされ、世代交代したイスラエルの人たちも、「私たちは、あなたに聞き従います」(同17)と心を一つにしました。そんなイスラエルの歩みは、現代の私たちにも当て嵌まるでしょう。

 「不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷えて行く」(マタイ24:12)と言われる現代ですが、人々が神さまを否み、サタン的価値観の猛威に捉えられていく中で、神さまは私たちに、イエスさまを信じる信仰に立つという、一つのことを求めておられます。今こそ、世界の全教会が、「イエス・キリストはわれらの神・主である」とする一つ信仰に立ち、祈り、賛美し、みことばに聞くことを願おうではありませんか。もし、教会の一つ一つからイエスさまの愛のメッセージが発信され続けるなら、世の人たちは必ずやそのメッセージを聞きたいと願い、そこかしこに隠れていた主の民がイエスさまの福音と出会い、その心が愛に変えられて行くことでしょう。現代人は、激しく否みながらも、この混沌とする社会になお毅然と立ち続けておられる主のお姿を見たいと望み、その愛に包まれたいと願っていると思われるからです。


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