コリント人への手紙Ⅰ


25
愛の主とともに
コリント第一 8:7-13
ゼカリヤ書 2:7-13
Ⅰ 異教社会の中で

 パウロは、「偶像に供えた肉」を「食べる」ことも「食べない」ことも、キリスト者の自由を損なうものではないと結論づけました。1~6節でパウロは、「異教の神々は作り物の偶像であって存在しない」と、「自分たちは自由なグノーシス(知識)を持っている」とばかりに分裂分派や不品行に走った人たちに、ある意味で同調しています。しかし、祈りを聞いてくれるわけではない神々の祭壇に供物を献げて祈る、その人間の思いが宗教を形成していくのだと、それは、現代人にまで受け継がれてきた人間中心の宗教観でした。彼らの「自由」に同調したパウロも、そんな彼らの立ち方には断固異議を唱え、福音に立つ者は、「自由な知識」を持っているかどうかではなく、そこに愛があるかどうかが問われるのだと、議論を進めます。聞くべきは、十字架に私たちの贖いとなって下さったイエスさまの愛であり、その愛こそが、異教の神々を神とする者とイエスさまを主とする者との、決定的な違いでした。

 今朝のテキストは、その愛にどう聞きどう応えるのかという問題に絞って、展開していきます。
 「しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです」(7)とパウロは、教会の人たちを「強い人」と「弱い人」に分け、その「弱い人たち」への配慮を問いかけます。「弱い人」とは、イエスさまを信じる信仰がまだ十分に確立していない人を指しているのでしょう。何を基準に? イエスさまを信じた人が教会に受け入れられるのは、現代のスタイルでは一般的に、「信じます」と申し出た人への牧師による一定期間の教育があり、役員会での諮問でOKが出されたら、会衆の前で「信仰告白」がなされ、その告白に基づいて「洗礼」が執行されるという手順ですが、一連の過程で異議が出された場合、受け入れは保留にされます。ただ、そういった現代風な過程がベストというわけではなく、判断されるのは主ご自身ですから、牧師が主の目線に立っていることが何よりも大切なのです。パウロの時代にはまだその原則が生きていて、本人の信仰告白を牧師(教会指導者)が判断し、バプテスマ(洗礼)が施されるという、シンプルな行程だったと思われます。そんな中で、主の日毎に行われる礼拝や教会全体の交わりがその人を成長させていくのですが、恐らく、パウロがコリントにいた時から、なかなか成長しない「弱い人」たちがいたのでしょう。コリント教会には、ユダヤ教や異教的要素が払拭されないまま群れに加わった人たちが、かなりいたのかも知れません。


Ⅱ 弱い人たちのつまづきにならないように

 「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません」(8)と、「偶像にささげた肉」についてパウロは、4節で暗示したキリスト者の自由にもう一度触れます。「食べる」ことも「食べない」こともどちらも神さまとの関係を損なうものではないと、神さまを前面に押し出すことで、これは、自由主義という罠に陥って神さまを見失ったコリント教会の人たちへの、パウロの反論なのでしょう。キリスト者の自由は、彼らが手にした奔放な自由とは異なるのだと、これは、彼らに同調したかに見えたパウロの、断固たる主張でした。なぜなら、ひとり子イエスさまを十字架につけて人々の贖罪とされた神さまが、その人たちをご自身の自由という永遠の世界へ召し出されたのであって、それは、自己完結で満足してしまうようなグノーシス主義的自由主義が追い求める理想、―断じて神さまに行き着くことのない彼らの神学―とは根本的に異なるからです。先にイエスさまの愛があるかないかが、神々を神とする者とイエスさまを主とする者の決定的違いであると聞きましたが、その愛には、私たちには思いもつかない神さまの世界の広がり―宇宙の星々の広がりではない―があるのです。その広がりへと招いて下さる私たちの神さま・主なるイエスさまに、目を留めたいではありませんか。

 パウロは、「弱い人たちのつまづきにならないように」と、本題に入ります。これが、「偶像に供えた肉」を食べるか食べないかという問題の、中心主題です。「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまづきとならないように、気をつけなさい。知識のあるあなたがたが偶像の宮で食事をしているのを、だれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心が弱いのに、偶像に神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか」(9-10)と、「食べること」も「食べないこと」も、それ自体はキリスト者の自由であって、神さまとの関わりを損なうものではありません。もともと、神々とされる偶像の神は実在しないのですから。けれども、弱い人たちは、あまりにも偶像に馴れ親しんで来たために、偶像への供物の肉を食べることで、すぐに偶像崇拝へと戻ってしまいかねません。「良心」とは、イエスさまを信じる信仰の土台・彼らの魂を指しているのでしょう。「強い者たち」が供物の肉を食べるのを見て、彼らの魂がまた神々へと傾斜してしまうのではないかと心配しているのです。供物の肉を食べることが、イエスさまを信じる信仰を損ねてしまうことがある。そんな悲しい傾向は、異教社会の現代日本でも、あり得ることではないでしょうか。


Ⅲ 愛の主とともに

 「その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです」(9)とパウロは、「強い人たち」に警告しました。「強い人たち」とは、グノーシス主義に毒されて自由を手に入れたとばかりに放埒に走った人たちのことで、イエスさまの十字架を贖罪と聞いてはいましたが、それは教えられた教理として「知っていた」だけで、キリスト者である自分の、全人格を注ぐほどには信じてはいなかったと言えるでしょう。それが「私へのイエスさまの愛である」とは、聞いていなかったのです。弱い人たちへの配慮を欠くのは、留まるべきイエスさまの愛から逸れているからに他なりません。そんなあり方が、兄弟たちを躓かせてしまうのです。

 パウロはそんな人たちに、かき口説くかのように、こう訴えます。「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです」(9-12)と。「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」と、これこそ、教会というところの核心ではないでしょうか。

 イエスさまの名が冠せられる教会は、決して、上から目線で兄弟たちを教えたり支配したりするところではありません。そもそも、そこに集う人たちは、「兄弟」と呼ばれているからです。イエスさまは、その弱い兄弟のためにも十字架にかかって下さったのです。どんなに弱くても、その兄弟は、イエスさまの十字架に罪赦された者、主の聖なる民なのです。教会がエクレシアと呼ばれているのは、主ご自身がそこを、聖なる民と呼ばれる人たちの群れと認定されたからです。

 聖なる民の上にさらに聖なる者たちがいるのではない! ただイエスさまだけがその群れの牧者であって、その人たちを教え、命じることが出来るのです。しかし、イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という、「新しい戒め」を守るよう弟子たちに命じられました。しかし、果たしてそれは命令なのでしょうか? いいえ、イエスさまの教会は、強いられてではなく、内から溢れる喜びと感謝をもって、愛を実行するところなのです。イエスさまがなさったように! けれども、「罪を犯さないように」という、私たちへの戒めもまた聞かれなければなりません。それは、「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです」(13)という、パウロ自身の戒めでもありました。肉は、神殿に供物とされ、祭司たちによって捌(さば)かれた後、市場に出回った可能性が高いのです。「もし食物が兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさいの肉を食べません。」というパウロの、そんな愛の形を覚えたいではありませんか。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」(ゼカリヤ2:8)とあります。万軍の主ご自身が弱い者のすぐそばにおられ、鉄壁の城壁となって守り支えて下さるのです。私たちの全生涯を、この愛の主とともに歩みたいではありませんか。


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