コリント人への手紙Ⅰ


24
主の愛に感謝しつつ
コリント第一 8:1-6
エレミヤ書 31:3-6
Ⅰ 偶像にささげた肉の問題

 コリント教会からパウロに届いた手紙(7:1)の中にはいくつかの質問があって、パウロは今、その質問に取り組んでいるところです。第一の質問は分裂分派の問題ですが、パウロは訪ねて来た何人かの人たちから詳しい事情を聞いていましたから、一章から四章までとかなり時間をかけて、その回答を練り上げています。第二の質問、不品行に対する回答は、近親相姦、さらに「結婚」というところにまで踏み込んで、五章から七章がこれに当てられています。そして、第三の質問「偶像に供えた肉」の問題は、八章から十一章1節までさまざまな角度から取り上げられ、ここで一連の質問の回答に一応の終止符が打たれます。

 今朝は、第三の「偶像に供えた肉」の問題ですが、そのイントロの部分からです。
 「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、霊は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(1-3)

 当時、異教の祭儀は、人々に大きな影響を与えていました。わけても、異邦人がキリスト教信者になった場合、祭壇に献げられた供物を食するという日常生活に入り込んでいたこれまでの行為を、単に異教の祭儀として排斥することは、かなり難しかったでしょう。パウロは、この問題を取り扱うに当たり、そんなものは我々に何の害も与えないと傲岸に構える自由主義者たちとの相違を―それがグノーシス主義の立ち位置でしたが―明らかにするところから始めようとしています。ここで「知識」と言われているのは、グノーシス主義的異端が命題にし、「われわれはみな知識(グノーシス)を持っている」とお題目のように唱えていた「グノーシス」のことですが、ここでは、祭壇に供えた物を神々からのお裾分けのように頂くことの可否が問題にされているのです。「そんなことは単なる習慣に過ぎず、食べても害にならず、食べなくても何の問題も生じない」とは、自由主義グノーシス神学の立ち位置でした。「食べてもいいし、食べなくてもいい」はパウロも同意見でしたが、しかしパウロは、彼らのグノーシスには断固関与しないとばかりに、このグノーシスに、定冠詞をつけていません。定冠詞をつけるなら、それはグノーシス主義的異端と同意見になり、キリスト教会もわれわれと同じであると同列に置かれてしまうからです。


Ⅱ 知識の中にあるものは

 パウロは、「偶像に供えた物など食べてもいいし、食べなくてもいい」と、従来の義務的習慣からの解放を知的自由と謳歌する人たちに、その「知識・グノーシス」は人の徳を建てるのかと問いかけ、コリント教会の人たちの議論を一歩前に進めようとしています。もし、「知っている」と知識をひけらかすだけなら、「その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない」と警告し、その知識のうちに「愛」があるのかと問いかけているのです。「人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」と……。神さまの目を基準とする。そこでは、「知識」より「愛」が問われ、神さまに知られているかどうかが大切であると、パウロはその立ち位置を明らかにします。グノーシス主義的異端に傾いた人たちは、神々を知っていると嘯き誇りますが、本当に大切なのは、自分が神々に知られているということではないかと……。ところが、金や石で刻まれた偶像の神々は、彼らを知ることは絶対にないのです。「知らなければならないほどのことも知ってはいない」とは、そういう意味です。「知識」は人の内で発生しそこで完結するものですが、「愛」は相互に通い合うものなのです。神々が私たちを愛することなど出来る筈はなく、ただ、唯一にして全能の、まことの神さまだけが私たちを愛し、私たちの愛を受け止めて下さるのです。「愛」は双方の人格の中で育っていくものでしょう。ご自分のいのちを十字架につけて私たちの贖罪となって下さったイエスさまの中に、まさにその愛が凝縮されているではありませんか。

 第三の質問に対するパウロの回答のイントロ部分では、分裂分派の争いの渦中にあるコリント教会が共有するグノーシス主義の、「神々に対する知識」という中心命題に絡めながら、パウロの主張は深まっていきます。「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」(4-6)と……。「天にも地にも」とありますが、それらの神々は、古来の豊穣信仰から出て来た神々であり、星々をアイオーンとして天空の永遠に思いを馳せたグノーシス主義の神々を指します。パウロは、あなたたちはそれらの神々が偽りの神であることに同意しているではないか、と言っているのでしょう。


Ⅲ 主の愛に感謝しつつ

 しかし、パウロとの間に大まかな同意があったとはいえ、パウロの回答から、コリント教会の人たちが抱えていた二つの疑問が浮かび上がって来ます。一つは、自分たちの信じている神さまは、神々に含まれるのではないのかという疑問です。パウロの回答は、神々は金や石で刻まれた偶像であって、実際には存在しないものであり、何も語らず、聞く耳も持たず、ただ、人間の想像から生まれた産物に過ぎない、ということでした。しかしそれは、人間社会に模して神々の世界を構築したギリシャ人には良く分かっていたことで、大切なのは神々への信心であると、彼らは神々を、まるで現代人のように受け止めていたのでしょう。我々日本人の宗教心も、これに尽きるようです。それは、自由主義神学を標榜する、グノーシス主義神学そのものでした。ですからコリント教会の人たちは、自分たちが信じている「神さま」は神々とは根本的に異なる絶対他者なのだと、パウロに言って欲しかったのではないでしょうか。

 もう一つは、イエスさまの位置づけに関する疑問です。彼らだけでなく現代人にとっても、イエスさまを神とすることは、もう一人の絶対他者がいるかのようで、不可解だったのでしょう。
 パウロは、イエスさまのことを、遣わされて世に来られたひとり子、神さまと人とを結ぶ仲保者であって、その罪のゆえに神さまから遠く離れた人間を神さまと和解させるために、十字架にかかり、ご自分のいのちをもって私たちの罪を贖われた方である、と証言します。実は、神さまは、実在しておられますが、旧約時代とは違い、もはや直接人と関わることはなく、私たちと関わるのは、あくまでもイエスさまを通してなのです。6節に「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在している」とありますが、そこには「唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在する」と、「神」を「イエス・キリスト」に言い換えただけの文章が重ね合わされています。ヨハネの福音書で、聖霊はイエスさまを現在化するために遣わされたと聞きましたが、イエスさまも、父なる神さまのすべてを現在化するために世に来られたと聞くのです。イエスさまが神さまの啓示であるとは、その意味で聞かなければなりません。神さまは、すべてをイエスさまに委ねられたのです。パウロは、そのお方を「主」と位置づけ、このイントロで「愛」に触れていますが、それは、十字架の主へのパウロの信仰告白なのでしょう。神さまと私たちを結ぶその愛が、イエスさまにおいて具現化したとする告白です。この「主の愛への告白」こそ、グノーシス主義やギリシャ人の神々と私たちの主とを、決定的に区別するものなのです。「偶像に供えた肉を食べてはならない」とこれは、エルサレム教会会議の決定事項でしたが(使徒15章)、奇妙なことに、異邦人伝道の当事者だったパウロは、一言もこれに触れていません。何故でしょうか。なぜならそこには、イエスさまの姿が見えないからです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)とありますが、それはまさしく、イエスさまの宣言でした。私たちもこの主に、注がれた尊い愛に感謝しつつ、告白とともに、心からの賛美と礼拝を献げようではありませんか。


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