コリント人への手紙Ⅰ


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限りない愛こそ
コリント第一 7:1-7
ホセア   14:4-7
Ⅰ 神さまの秩序を

 パウロは、六章で「不品行」の問題に一応の決着をつけ、依然としてそれを念頭に置きながらも、別の問題に移ります。7章以下11章1節までは、コリント教会の人たちからの、いくつもの質問に答えたものであろうとNTDの註解者がコメントしていますが、7章1節に「さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが……」とありますので、その通りなのでしょう。質問者たちは、反発しながらも、なおパウロを、傑出した教会指導者と仰いでいたようです。

 第一の質問は、「結婚してはいけないのか」ということです。恐らく、パウロから不品行を咎められて、彼らは、性行為そのものを禁止されたと思ったのでしょう。結婚は性行為のためであると、それは、現代のある種の人たちにも通じるところがあるようです。もっとも、現代人と同様、コリント教会にも、遊女との交わりは許されるとする自由主義者もいましたし、結婚における性行為そのものがキリスト者の信仰を妨げると考える禁欲主義者もいたなど、決して一様ではありませんでした。しかし、その二つの考え方は両極端で、どちらも性行為という営みを、汚らわしいことと蔑視していたようです。そうした意識は、パウロやアポロ以後に指導者となった、ユダヤ人たちから教えられたものと思われますが、創世記に「人にはふさわしい助け手が見あたらなかった。……そこで神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、人のところに連れて来た。それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:20-24)とあることを、彼らはどう考えていたのでしょうか。これは、当時の後期ユダヤ教が、モーセに教えられた祭司の民族イスラエルとは異なる、この世の諸宗教と横並びになっていたことを窺わせてくれるではありませんか。恐らく、パウロ自身も禁欲主義者だったと思われますが、パウロはそんなことを言っているのではありません。「男が女に触れないのは良いことです」(1)とそれは、性行為を欲望とのみ捉えている人たちへの戒めであって、パウロは、その欲望が不品行に至るのだと言っているのです。そもそも、パウロの結婚観は、神さまが創造的に秩序づけられたとするもので、そんなパウロが独身を貫き通したのは、結婚の善し悪しを言うのではなく、生活も心も……その全身全霊をもって、イエスさまに仕えたいがためでした。


Ⅱ 世界に冠たる優れた基準を

 ですからパウロは、こう続けます。「しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同時に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」(2-4)
 「互いに義務を果たし、自分のからだに対する権利は相手にある」と、このパウロの勧めは、絶対的男社会であったローマ・ギリシャ世界において、優れて先進的なものでした。

 このパウロの結婚観は、あまりにもユダヤ教的であるとか、十分ではない、慎重に過ぎる、グノーシス主義の禁欲の教えを取り入れているなど、いろいろと言われていますが、決して結婚を否定するものではありません。一夫一婦制を構築し、妻の権利を保護し、離婚を原則禁止するなど、現実問題にも切り込んでいて、男社会是正に一石を投じ、神さまの創造の秩序から導き出された、極めて先進的なキリスト教結婚倫理と言えましょう。それは、イエスさまの教えを踏襲したものでした。たとえば、申命記には、「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合には、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない」(24:1)とありますが、イエスさまは、そんな男有利の習慣を破棄し、新しい基準となる教えを弟子たちに伝えられました。マタイ福音書には、「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです」(5:32)とあり、マルコ10:11-12にも同様の並行記事がありますから、初期教会は、そのような先進的な結婚倫理を共有していたのでしょう。パウロはそれを引き継ぎ、さらに発展、整備させているのです。ローマ・ギリシャ世界には、インセストゥムなど、ローマ法による女性保護の視点も育ち始めていましたが、まだまだ男社会であり、その意味で、イエスさまが教え、パウロが目指した結婚倫理は、世界に冠たる優れた基準を提供するものであったと言えましょう。

 一部の異なる宗教に立つ国や民族には、まだ古来の風習に拘るところもありますが、近代の欧米キリスト教社会、さらに、そこから全世界に広がった近現代の家庭を中心とする社会構造には、このようなパウロの結婚観を土台に、「世界基準」というものが出来上がってきました。教会の優れた倫理意識は、世の人たちの模範となり得るのです。現代の頽廃文化を修正し、神さまの秩序を回復していくその責任を、教会は負っているのです。ですから私たちは、自信をもってこの世と向き合って行こうではありませんか。


Ⅲ 限りない愛こそ

 このように、キリスト教世界ばかりでなく、一般社会においても基準となる結婚倫理を構築した理由を、パウロはこう言っています。「互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。」(5) 「互いの権利を奪い取ってはならない」と言われています。それは、結婚が、別々の道を歩んでいた二人の者たちを出会わせて一つに合わせられた、神さまの秩序の中にあるからです。夫婦の中心に据える最も大切なものは、その秩序を構築された、神さまを認めることなのです。パウロは、その神さまとの交わり、祈りとみことばに教えられる時間を第一にすべきである、と言っているのです。それは、夫婦それぞれを別々に召し出された神さまとの交わりであって、一人になってその神さまと向き合う時間をということなのでしょう。もちろん、夫婦が心を合わせて一緒に祈ることも大切ですが、ひとり神さまの前に出て、召し出された時の原点に立ち返り、神さまに養われる……、それは、夫婦がより一層神さまの介在を知るために、必要な時間と言えるでしょう。夫婦間で最高のかすがいは、神さまご自身なのです。

 もし、二人の間に神さまの介在を求めようとしなければ、二人の間には、神さまに敵対する者・サタンの暗躍する隙間を生じさせてしまうでしょう。「自制力を欠く」とは、不品行に陥る危機を指しているのかも知れません。あるいは、互いの主張がぶつかり合う、いさかいを言っているのでしょうか。いや、それほど大げさなものでなくても、夫婦の間には、虎視眈々と隙を窺うサタンの目が光っているのです。ちょっとした行き違いさえ、大きな危機に立ち至ってしまいます。そんな危機は、だれもが一度や二度、経験したことがあるのではないでしょうか。ひとり神さまの前に出て祈る時、互いのために取り成すことも、極めて重要なことでしょう。コリント教会の人たちは、そんな神さまの前に出る時間を大切にして来なかったのではないかと、想像してしまいました。

 パウロは、第一の質問・結婚に関する問題を、「以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります」(6-7)と締め括りました。「命令ではない」とわざわざことわっていますが、裏を返せば、コリント教会の人たちにとって、命令のたぐいが余りにも多くあって、パウロのこの勧めを、命令と受け止める可能性があったということなのでしょう。パウロの勧めには、どんなことでも反発したい人たちでした。しかしパウロは、彼らに、神さまの恩恵と秩序の道を歩んで欲しいと願っているのです。「私のようであること」とは、その意味においてでした。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである」(ホセア14:4)とあります。預言者ホセアのメッセージは、「赦しと愛」でした。そして、神さまもパウロも、彼らコリント教会の人たちを、どこどこまでも愛し、赦そうと、忍耐強く待っていたのです。この限りない赦しと愛こそ、結婚における最も重要なものであり、それに倣って欲しい、これが主の福音であると……。パウロが最も伝えたかったのは、そこだったのではないでしょうか。


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