コリント人への手紙Ⅱ



神さまの広い世界に
コリント第二 3:4-11
出エジプト記 20:2-6
Ⅰ 私たちの確信も

 「私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています」(4)とパウロは、「確信」ということばを用いて、2:16で「ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです」と触れた、イエスさま福音の中心部分に踏み込もうとしています。これは、4:6まで続くフレーズの導入部分ですが、難しいところもありますので、丁寧に見ていきたいと思います。

 「確信」は、自分または誰かを「説得する」ときに用いられることばですが、この場合、「キリストによって、神の御前で」と言われていますので、これはイエスさまを信じる信仰の核心部分を指していると聞いていいでしょう。「御前で」とは、方向性を指す前置詞ですから、一見自己主張とも見えるパウロのこの言い方は、イエスさまによって神さまに献げられる信仰告白として、コリント教会の人たちに提供されていると言っているのです。そして、これほど慎重に考え抜き筆を進めながらも、まだ誤解される怖れがあると思ったのでしょうか。パウロは、「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるということではありません。私たちの資格は神からのものです」(5)と、自分がしてきたことの一切は神さまから来ているのだと、それをはっきりさせようとしています。「資格」と訳されていますが、これは「到達する能力」とか「適任」という意味で、「ふさわしい力」(岩波訳)と訳すのが適切でしょう。パウロは、当時最高のラバン・ガマリエルのもとで訓練を受けた律法学者でしたが、そんなこととは全く関係なく、この福音宣教の力は、神さまから与えられていると言っているのです。どんな場合にも、使徒パウロの立ち位置は、そこにありました。

 コリント教会には、律法を振りかざす、頑固なユダヤ人教師たちが多くいましたが、彼らは、イエスさまの福音を受け入れた後も、依然として教会の人たちに、「律法遵守」を押しつけていたのです。それが「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、」(2:16)と言われている、コリント教会の大きな障害でした。それは神さまとイエスさまを否定し、中心にある神々の偶像は隠されていて見えませんが、ある意味で彼らは、自分を中心とする宗教形態に陥っていたのです。パウロは、今、そのことに決着をつけようと、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」(6)と、「資格=適任者」を再度持ち出しますが、それは、コリント教会で問題になっていた、「パウロの使徒職」の是非を言っているのかも知れません。ここから先、パウロは、イエスさまから召し出された「福音の使徒」として、福音の中心部分に踏み込みます。


Ⅱ あなたの神、主である方を

 パウロは、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」(6)として自分は召されたと、「文字は(人を)殺し、御霊は(人を)生かす」(6)ことを明らかにしようとしています。大商業都市に建てられたコリント教会には、各地からいろいろな人たちが集まっていました。「文字」とは「律法」のことですが、コリント第一書には「異言」のことが取り上げられていますので、多言語の問題もあったのでしょうか。パウロは、そんな人たちの心に届いていくには、「御霊」のお働きが不可欠と見ていたのでしょう。ユダヤ人が主導する「律法」重視の姿勢は、そんな多種多様な人たちを巻き込んで、伝えられた福音をなし崩しにし、意味のないものにしようとしていました。パウロは、そんな状況を憂え、ここで、神さまの力・御霊の働きを明らかにしようとしているのです。

 しかしながら、パウロはここで、御霊の働きを説明しようとはしていません。ただ御霊が働かれるなら、イエスさまの福音が明らかになっていくと、その働きのために、自分は御霊に仕える者(6)とされたと言っているのです。ですからパウロは、「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう」(7-8)と、人々を縛って、福音を意味のないものにしていると思われる「律法」の本当の役目を、明らかにしようとしているのです。「石に刻まれた文字」とは基本律法の十戒のことで、そこから、各種法典や道徳律法、祭儀律法、社会律法など細かな規定が生まれて来たのですが、時代が進み、ラビたちの語録をもとに更に細かな規定が加えられて、ユダヤ人たちは、「~してはならない」式の律法に縛られて来たのです。それは彼らが、律法を守ることで神さまの意に適う歩みを願ったからですが、彼らの律法主義は、神さまの律法に従って歩もうとした彼らの、涙ぐましい努力の結果だったのです。律法をことごとく守ることが出来れば、神さまの祝福に与ることが出来たのでしょうが、しかし、どんなに努力しても、いや、努力すればするほど、律法違反が目立ってしまうのです。

 そのように、人を罪に定める律法でさえ、神さまの栄光に輝いていました。もともと、偶像崇拝や形ばかりの宗教に走ってしまいがちな人間に与えられた、基本律法としての十戒には、その前文に「わたしは、あなたの神、主である」(出エジプト20:2)とあるように、「神さまは私たちの神・主ご自身」という主張があるのです。モーセの顔が輝いていたのは、十戒が与えられたシナイ山で神さまと親しく語らったことの証しですが(同34:29-35)、そこには、「アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった」(同30)とあります。


Ⅲ 神さまの広い世界に

 しかし、モーセの輝きはやがて消え、その後、それには一切触れられていません。一度だけ、イエスさまが高い山(ピリポ・カイザリヤの北方)でモーセとエリヤの二人と話されたとき、同行したペテロとヤコブとヨハネは、イエスさまの「衣が白く、光輝いた」のを目撃しました。その記事(ルカ9:28-35)には、モーセとエリヤも「栄光のうちに現われた」とありますが、その栄光は、イエスさまの輝きの反射だったのではないでしょうか。パウロが、「やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら栄光があふれるのです」(8-9)と言って、「御霊の務め」「義とする務め」に招かれたイエスさまの栄光は、モーセの輝きとは比べることが出来ないと言っているのです。

 けれども、パウロは、律法を否定しているのではありません。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(ロマ7:12)と言っています。それは、律法が私たちを罪に定める務めを担っているからですが、消え行く律法の栄光と、パウロはここで、何回もその栄光に触れています。覚えて頂きたいのです。律法は、私たちの罪を明らかにし、イエスさまの福音は、その罪を赦し、私たちを神さまの御国へ導く道であることを! パウロは、「かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです」(10)と言っていますが、それは、「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ロマ5:20)ということなのでしょう。繰り返しますが、律法は、私たちの罪を明らかにするものなのです。人はしばしば罪を、法律上、社会習慣上の倫理道徳違反としがちですが、罪は、神さまの律法に照らして初めて、それが神さまに対する罪であると見えてくるのです。私たちは、神さまの前に立って、その罪を罪と認識しなければなりません。

 パウロは、今朝のテキストを、「もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです」(11)と閉じました。大いなる栄光、永続する栄光、それはイエスさまの福音であって、私たちはそこを見なければなりません。それなのに、消え去る栄光にばかり惹かれてしまうのは、何故でしょうか? 現代という時代は、変わることのない恒久的な基準を失い、人々の目はますます一時的なものに向いていくようです。しかし、基準とすべきは、時代が変わっても動くことのない、神さまの世界ではないでしょうか。神さまの世界、そこには、大きく広い、イエスさまの福音という輝きがあるのです。そんな世界にあなたも入り、その大きく広い世界を実感されませんか。


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