コリント人への手紙Ⅱ



心の板に御霊が
コリント第二 3:1-3
箴 言   3:1-12
Ⅰ コリント教会を舞台に

 コリント教会は、大商業都市コリントに建てられていましたが、自分たちの会堂を建てようかというほど、擁するメンバーも多くなっていました。恐らくそこには、何人もの町の名士たちが来ていたのでしょう。問題の渦中にあった「その人」(2:5)も、そんな金持ちの一人ではなかったかと思われます。彼らが建てたいと願った「教会堂」は、神々の神殿やユダヤ人の「シナゴグ」に匹敵する、豪華なものだったのでしょう。そんなコリント教会が、目立たない筈がありません。噂を聞いた各地の「キリスト教伝道者」たちが、コリント教会を舞台に自分たちの名を上げようと、こぞってやって来ました。まるで、エレミヤ時代の偽預言者たちのように……。「彼らはお金のためにやって来た」(前掲「第二コリント書の神学」)と言われていますが、その通りだったのでしょう。

 コリント教会の一部の人たちは、パウロを、そんな人たちと同列に見ていたのです。「私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか」(1)とは、ユダヤ人が他のシナゴグを訪れるときに用意していた推薦状を言っているのですが、それはまた、お金と名声の亡者のような自称「キリスト教伝道者」たちが、それぞれの町の有力者たちからの推薦状を手に教会に来ていたことを言っているのでしょう。しかし、そんなケースが多くなって、教会で起こる混乱の相当部分が、彼らに起因することが段々と明らかになり、教会は、彼らを警戒し始めたのでしょうか。その警戒が、パウロやシラスたちにも向けられたようです。

 「それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか」(1)とあります。「私たちを見知らぬ者のように扱うのか。あながたこそ、主から知らないと言われないように気をつけなさい」と、ここには、そんなパウロの痛烈な皮肉が隠されているようです。コリント教会を、その開拓期からずっと苦労しながら建て上げて来たパウロたちにとって、そんな推薦状が必要でないことは言うまでもなく、自己推薦も不要でした。

 しばしば教会では、多数決を基準に物事を決定する向きがありますが、イエスさまの福音に関わる事は、神さまを基準にしなければなりません。その基準を見失ったコリント教会の指導者たちには、推薦状を持たないパウロが「使徒」を主張する(2:17)ことは、自己推薦ではないかと、問題を引き起こす伝道者たちと同じと思われたのです。パウロにとって、それは屈辱以外のなにものでもありません。いやそれは、パウロを侮辱し無視するだけでなく、パウロが伝えた福音の中心・イエスさまをないがしろにすることでした。「推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか」とあるこのことばには、パウロの強烈な怒りが込められているようです。


Ⅱ パウロの推薦状は

 「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです」(2)とパウロは、コリント教会が建てられていること自体が、自分たちの推薦状であると主張しています。パウロは、コリント教会のために、イエスさまから召し出されて使徒として働いているのですが、それはパウロの誇りでした。ですから、「そのことは私たちの心に刻まれていて、すべての人に知られ、また読まれている」と言い切ることが出来たのです。「すべての人に知られている」とは、コリント教会が、エペソ教会などアジヤの諸教会やマケドニヤの教会、そして、パウロの母教会であるアンテオケ教会や母なるエルサレム教会にも知られていて、祈りに覚えられていたことを指しているのでしょう。イエスさまの教会は、全世界で一つ教会として繋がっているのです。「読まれている」とは、コリント教会に宛てた手紙が書き写されて、パウロとコリント教会の関係が、そうした各地の教会で知られていたことを指しているのでしょう。

 それは、教会が、イエスさまの群れであるという意識を、共有していたからに他なりません。つまり、コリント教会は、多くの人たちを擁し、教会堂を建てようとするほど大きな群れになっていましたが、単独で立っていたのではなく、その問題と混乱を、多くの人たちが我が事のように心配し、祈っていると言っているのです。コリント教会の人たちは、自分たちだけで立っていると思っていたかも知れませんが、何よりも、教会の主であるイエスさまご自身が、コリント教会のために痛み、苦悩しておられることを、覚えなければなりませんでした。マタイの福音書には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(11:28)とあり、「病気の人々をみなお直しになった。これは預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(8:16-17)とあるのです。重荷を抱えていない教会などある筈もなく、様々な煩いや病いは、とりわけコリント教会に多かったのでしょうが、そんな群れだからこそ、格別にイエスさまの癒やしが必要であり、パウロは、そのイエスさまに倣うように働いて来たのです。それなのに、「我々のところで働くには、確かな推薦状が必要だ」などと言われてしまうのです。コリント教会のことを心配し祈っている人に、「我々と何の関係もない」などと、どうして言えるのでしょうか。


Ⅲ 心の板に御霊が

 パウロはこのフレーズを、「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によて書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです」(3)と閉じました。ここで言っているのは、パピルスや羊皮紙に書かれた推薦状のことではありません。そんな推薦状は、必要ないのです。なぜなら、そんなものは混乱を引き起こすだけで、実際、町の名士で、恐らく金持ちでもあった「その人」(2:5)は、教会の貧しい人たちをないがしろにして、聖なる愛餐を無残なものとし、ついには誰もが耐えかねて、教会の名をもって処罰しなければならなかったではありませんか。

 パウロは、さまざまな混乱に見舞われながらも立ち続けて来た、あなたがたコリント教会こそ私たちの推薦状であり、イエスさまによって書かれた手紙であると、ただそれだけを覚えて欲しいと願っているのです。それは、「私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたもの」でした。歴史上には、「キリスト教会」と名乗ってはいても、イエスさまの教会とは言えないケースが多々あり、それは現代の教会も同じです。そして、コリント教会も、その抱えた問題の多さ故に、本当にイエスさまの教会なのかと疑われる事態にあったのです。けれどもパウロは疑いません。「(あなたがたが)生ける神の御霊によって書かれたのは明らかだからです」とここに、確信の一文を放っています。「御霊によって」「心の板に……」とありますが、これは、「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ」(箴言3:3)と、箴言に何回も見られる表現ですが、心を込めて覚えよと言われたのに神さまの教えを無視し、バビロンの大軍に侵略され、ついに国を滅ぼしてしまったイスラエルを意識してのことなのでしょう。それは、現代の私たちも心しておかなければなりません。どのように? それは、私たちを突き動かすものが、愛であるかどうかということではないでしょうか。「イエスさまに愛され、イエスさまを愛しているか」ということなのです。その愛が、私たちの罪を赦す十字架のイエスさまから出ているなら、それはごく自然に、「赦し、慰め」(2:7)という、人への愛へ向かうでしょう。そして、その愛は、ベタニヤのマリヤのように、みことばに聞き入る姿勢(ルカ10:39)を産み出すのです。麗しい交わりを構築していたトロアス教会の人たちが、一日の労働で疲れ切って居眠り(使徒20:7-12)してしまうほどだったのに、夜を徹してパウロの話に聞き入ったのも、ただただ神さまのことばを聞きたいがためでした。それが彼らの、心を込めた主への礼拝だったのです。御霊に突き動かされないで、どうしてそのような主への愛、賛美、感謝が生まれて来るでしょう。そのどれもが、彼らの纏ったイエスさまのかぐわしい香りなのです。私たちの信仰が本物であるかどうかが問われるこの終末の時代に、私たちも、そんな「香りを纏う者」でありたいと願わされるではありませんか。


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