コリント人への手紙Ⅱ


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踏む者と種蒔く者とが
コリント第二 13:5-10
アモス書   9:11-15
Ⅰ 信仰の吟味を

 グノーシス的自由主義に陥っている巡回伝道者たちと共に、分裂分派、近親相姦、金銭的不正といった、ローマ法にも抵触する罪を欲しいままに重ねているコリント教会の人たちに対し、「直ちに罪を精算し、イエスさまを信じる信仰者として立ちなさい」とするパウロの勧めは、最終章を迎えます。パウロは「涙の手紙」を再録しながら第二書の結論に達し、筆を置こうとしているのですが、今朝のテキストは、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。-あなたがたがそれに不適格であれば別です。-しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます」(5-6)と始まります。

 前回、三回目のコリント訪問を視野に、「今度そちらに行ったときには、容赦はしません」(2)という厳しい警告と共に、「弱い私たちがキリストにあって生きていることを考え、そのような生き方に倣いなさい」(4)という希望の勧めが、今回のメッセージにおいても、「イエスさまを信じる信仰に立っているかどうかを、自分をためし、吟味しなさい」と、繰り返されています。

 「試す」「吟味する」と並べられたこの二つのことばは、どちらも「試す」という意味で、それぞれ入り組んだ背景と意味を持っているのですが、ここでは、意味上の違いを念頭に並べられたというよりむしろ、パウロの好みなのでしょうか。前者は新約聖書中36回用いられているのに対し、パウロ文書では6回と少なく、後者は新約聖書中24回用いられているのに対し、パウロ文書では16回と多いのです。使い馴れないことばを使ったので違和感を感じ、馴染んだことばで繰り返したということなのでしょうか。その辺りのパウロの感覚が見えるのではないかと、5-6節を、岩波訳から紹介したいと思います。「あなたがたが信仰のうちにあるかどうか、あなたがたは自分自身を検証しなさい。自分自身を吟味しなさい。それともあなたがたは、自分自身を認識しないのか。すなわち、イエス・キリストがまさにあなたがたのうちにおられるということを。もしも認識しないのなら、あなたがたは失格者である。しかし、私たちは失格者(など)ではないのだ、ということをあなたがたが承知しているよう、私は希望する。」とあります。


Ⅱ 失格者とならないために

 ここに浮かび上がって来る問題点が二つあります。
 一つは6節からですが、新改訳では「私たちは(あなたがたが)不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいる」となっていて、(あなたがたが)と括弧で括りたくなるように、「私たち・失格者」がパウロなのかあなたがたなのかという曖昧さが残っているのですが、岩波訳は、その曖昧さを払拭し、「私たち・失格者」をパウロと同労者と見ているのです。すると、コリント教会の人たちが、「パウロのうちにイエス・キリストがいる」ことを疑っていたと、はっきりして来るではありませんか。これに対してパウロは、「私たちは、あなたがたがどんな悪をも行わないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのはなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています」(7-9)と反論しています。ここから、自分が伝えるイエスさまの福音を、コリント教会の人たちがそのまま受け入れてくれるようにとひたすら願う、パウロの祈りが聞こえて来るではありませんか。特に「祈り」は、教会を建て上げる上での、パウロの真骨頂でした。

 二番目は、岩波訳が「失格者」としているこの言い方ですが、新改訳は「不適格者」、新共同約は「偽者」、文語訳は「棄てられる者」、口語訳は「見捨てられた者」と、いづれも訳語に苦労しています。しかし、このことばには、「私たちのうちに、イエスさまがおられるのか」という最も中心的な問いかけが込められていると聞かなければなりません。それは、ヨハネ福音書の講解説教中、何度も聞いて来たことですが、ヨハネは、遣わされたパラクレートス(助け主)と呼ばれるお方によって、イエスさまは私たちのうちに現在化されていると言っているのです。ところが、巡回伝道者たちは、自分たちが「信仰者」であることを自分自身で認定し、コリント教会の人たちも、そのような在り方を受け継いでいました。しかしながら、キリスト者として本物であるかどうかは、神さまの招きのことばを聞くかどうかにかかっているのです。これは、コリント教会の人たちだけでなく、現代の私たちも覚えなければならないことでしょう。回りくどい言い方をしましたが、はっきり言いますと、キリスト者としての認定は、「十字架とよみがえりのイエスさまを信じる信仰に立っているかどうか」なのです。それが「あなたがたの罪の赦しであり、救いである」と、パウロは啓示である聖書を通して語っているのです。


Ⅲ 踏む者と種蒔く者とが

 さて、10章から続いて来た「涙の手紙」の結論ですが、パウロは、「そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです」(10)と締め括りました。「権威」ということばが繰り返されていますが、パウロは、その「権威」を持ち出すことで、建てられたイエスさまの教会がコリント教会以外にもあることを知ってほしいと願っているのです。教会は単独で立っているのではなく、イエスさまの一つの群れとして立っているのです。しかしながら、コリント教会の人たちは、自分たち以外の教会に関心を向けようとはしません。多くの教会は、困窮の中にある「母なるエルサレム教会」へ支援献金を送っていましたが、コリント教会の人たちは、それを渋っていました。自分たちのために祈ってくれるエペソ教会など他教会に寄せる関心は、極めて薄かったと言っていいでしょう。彼らが関心を寄せていたのは、ローマ教会など、大都市に建てられたごく一部の教会だったのでしょう。

 「教会・エクレシア」は、「この世から神さまの御国へと呼び出された一つの共同体」であり、時間と空間を超えた存在であると聞かなければなりません。遠い欧米の教会も、何世紀も前の教会も、同じ主の群れなのです。兄弟姉妹として関心を寄せて当然ではないでしょうか。私たちのこの小さな群れにも、東京のある教会からは何十年にも渡って祈りと献金が届けられ、北海道や香川、海外など、いろいろな地の兄弟姉妹たちから祈りと献金で支えられて来ました。主の共同体の一員として私たちも、時間と空間を超え、他教会のために祈り、支える責任があると覚えたいのです。

 ここ何回か取り上げてきたアモス書から、もう一度聞いてみましょう。そこには、「見よ。その日が来る。-主の御告げ。-その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの捕らわれ人を帰らせる」(9:13-14a)とあります。きっと、小さな私たちにも、分担できる何かの役割があるのでしょう。私たちは「耕す者」なのでしょうか。「刈る者」なのでしょうか。「ぶとうを踏む者」なのでしょうか。それとも「種蒔く者」なのでしょうか。その分担された役割を手探りし、主のご用に役立ちたいと願います。現代、教会からたくさんの人たちが去っていると言われていますが、その人たちに暖かい声をかけ、その人たちが教会に戻れるよう祈りましょう。イエスさまのことを聞きながら信じることを逡巡している方たちも多いのですが、そのような方々のために、また、問題を抱えて苦労しておられる教会のために、祈りましょう。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いの徳を高め合いなさい」(Ⅰテサロニケ5:12)とありますから。

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