コリント人への手紙Ⅱ


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主を求め、善を求めよ
コリント第二    12:19-21
アモス書 5:14-15、18-20
Ⅰ 神さまの前で

 コリント教会の人たちは、パウロが先に書き送った「涙の手紙」を読んで、それをパウロの自己弁護ではないかと反感をあらわにし、怒り狂った一部の人たちは、それを破り捨ててしまいました。確かに、「涙の手紙」には、パウロが自分を主語にして語る「私が……」という記事が多いのですが、パウロは、それが彼らの誤解であると弁明しています。「あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです」(19)とあります。確かに、パウロが「私は……」と言っている箇所は多いのですが、それは、イエスさまの福音は遣わされた伝道者の手に委ねられているというパウロの意識から出たもので、そこには、召し出されて福音を取り告ぐ者の、責任の重大さが込められているのです。そんなパウロの主張の一つ一つを数えて見て、身の引き締まる思いがしました。

 パウロは、「私たちは神の御前で、キリストにあって語っている」と主張していますが、コリント教会の人たちが「涙の手紙」を読んで、それをパウロの「自己弁護」と批判したのは、「あなたたちには問題がある」と指摘して自分たちの前に立ちはだかるパウロへの反感だったのでしょう。しかし、パウロが立っていたのは、神さまの前だったのです。勿論、コリントにイエスさまの教会―エクレシア―を建て上げるために、パウロがコリント教会の人たちの前に立たなければならなかったのは事実です。しかし、神さまの前に立つことと、教会の人たちの前に立つこととを区別するほうがおかしいのではないでしょうか。彼らがパウロを、自分たちの前に立ちはだかる邪魔な存在と意識したのは、パウロの叱責がよほど身に堪えたからでしょう。彼らが真に神さまの前に立つパウロを見ていたなら、そんな批判は生まれて来なかったと思うのですが……。

 ここで、「イエスさまの教会」ということに触れておきたいと思います。
 「教会」は英語ではchurch(チャーチ)、ドイツ語ではkirche(キルヒェ)ですが、それはギリシャ語の κυριακὸς(キュリアコス・主のもの)がラテン語のchristus(キリスト)と結びつき混じり合って、古英語時代を経て出来上がったものと指摘されています。それが「教会」と訳されたのは、近代になって欧米の宣教師が入った中国において生まれた造語(漢語)ですが、邦訳はそれを引き継ぎました。しかし、聖書の「エクレシア」を「church(教会)」と訳したのには、多くの人たちから疑問符が付けられています。ヘブル語・「カハル」(会衆)の訳語エクレシアは、「この世」から「神さまの御国」へ「呼び出された者の群れ」を指しますが、それは「イエスさまの共同体」であり、イエスさまを信じる者たちの「交わり」または「信仰共同体」、「公会」と訳すべきではないかとの意見が多いのですが、今となっては手遅れです。明治初期に建てられたプロテスタント教会は、しばらくの間、「公会」という呼称を用いていましたが、何かと抵抗ある「教会」という用語には、そんな混乱した経緯があったのです。

 パウロは、「すべては、あなたがたを築き上げるため」と言っていますが、これは、まだ「教会」という呼称がなかった時代に、イエスさまを信じる者たちの群れを見事に言い表していると思われます。それはヘブル語カハルのニュアンス・「わたしの民」と言うことですが、テトスの報告を聞いてパウロは、コリント教会がイエスさまの愛の群れに成長するさまを思い、期待に胸を膨らませたのでしょう。


Ⅱ ゆっくり、ゆっくりと

 ところが、彼らの間には、まだ混乱や不一致、不信感、不品行といった問題が残っていることが浮上して来ました。恐らく、テトスの報告には、そのようなことも含まれていたのでしょう。その辺りのことをパウロは、「私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者ではなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか」(20)と言っています。「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動……」、これは第一書で触れられたことですが、第一書は、コリント教会にそのようなキリスト者らしからぬ振る舞いをしている者たちがいると、エペソにいるパウロのもとに訴えて来た人たちの要請から書き送られたものです。パウロのこの言い方から、コリント教会には、もはやパウロを知らない人たちが大勢いて、巡回伝道者たちの指導のもとで、イエスさまを信じる信仰は何ものにも縛られるものではないと、「自由」を謳歌する悪しき風習が育ちつつあったのかも知れません。

 パウロは、テトスの後を追うように、すぐにでもマケドニヤを発ってコリントにと考えていましたが、慎重に計画を練り直すことにしました。テサロニケ西部の田舎町ベレヤに出来た新しいの群れを放置する訳にもいかず(そう指摘する註解者もいる)、コリント教会の実情をもっと把握しなければならないと考えたからでしょう。確かに、コリント教会が、第一書で触れられた多くの問題を、テトスの懸命な働きがあったとは言え、わずかな期間ですっかり解消出来たとは言いがたく、パウロはこの問題に時間をかけることにしました。ゆっくり、ゆっくりと……。

 パウロがコリントに行く目的はただ一つ、コリント教会が主に喜ばれる群れに成長することでした。そのためには、タイミングを計らなければなりません。パウロの計画は、「五旬節の日までにエルサレムに着く」ということでした。今回のパウロのエルサレムに行きは、一つの請願を立てるためでしたが、パウロが何を請願しようとしていたかは使徒行伝にも触れられていません。恐らく、ローマ宣教の為ではなかったかと思われます。パウロが願っていたのは、「ローマに行く」というその起点を、コリント教会の人たちと共有し、彼らを神さまの計画に巻き込むことでした。そのために、コリントからエルサレムに出発する際に、彼らに祈って送り出してもらいたいと、コリント到着を、航海可能なぎりぎりの冬直前に設定したのです。それだと、約三か月をコリントで過ごした後、新年2月には、希望に胸をふくらませつつ、エルサレムからローマに出発出来るだろうと考えたのです。


Ⅲ 主を求め、善を求めよ

 だが、それまでの九ヶ月間は、コリント教会内の掃除をしなければなりません。きっと彼らは、自分たちでそれをやり遂げるだろうと、パウロは期待していました。

 パウロは今、テトスに託す第二書に、「涙の手紙」を再録しているところです。テトスと二人の兄弟たち(第二書8:18、22参考)はこの手紙を持ってコリントに行こうとしているのですが、パウロは、教会改革の手立てを、コリント教会の人たちが手を着けやすいところから始めようと、問題点を絞り込みました。「私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか」(21)とパウロは、前節に続く言い方で問題提起をしました。そこでは、キリスト者としての交わりや愛の喪失といった根本的な問題には触れず、ただ、近親相姦と貧しい人たちを愛餐からのけ者にするなど、見える汚れを取り除くことだけに絞ったのです。このパウロの作戦は、功を奏しました。

 第二書2章には、「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい」(2:6-7)と、一人の人をみんなで処罰したことが記されています。それは、先に書き送られた「涙の手紙」に今回再録している部分があって、コリント教会の人たちは、パウロが望んだ通りに動いたということなのでしょう。恐らくパウロは、「そのことを思い出して欲しい。そして、残り滓のような罪がまだあなたたちの内にあるなら、それを正しく処理しなさい」と言っているのです。そのような事柄は、教会が裁く以前に、ローマ法で裁かれなければならないことでした。パウロは、教会の正義が、一般社会の正義に劣るものであってはならないと言っているのです。現代もそうではないでしょうか。そういうことを鋭く見分けることで、キリスト者としてより深い信仰に踏み込んで行くことが出来るのだと、パウロは期待しているのでしょう。コリント教会の人たちの反応が知りたいところです。

 使徒行伝のステパノのメッセージに、「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、ほふられた獸と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す」(7:42-43)とありますが、これは、バビロン捕囚前のテコアの農夫・アモス書5章で語られている、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。……ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない」(14-20)の続きなのです。紀元前という古代や初期教会時代に、これほどの自分の魂との向き合いがあったことを覚えたいのです。現代教会の中に、一部であっても、自分との向き合いに鈍感になって、救いを求める他の人たちの躓きになっているところがあるとしたら、それは改めなければなりません。私たちも含めて……。


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