コリント人への手紙Ⅱ


37
祈りの家で
コリント第二 11:23b-27
イザヤ書      56:4-8
Ⅰ 苦難の中で

 パウロが「愚かな自慢話」として「敵」・巡回伝道者たちに突き付けたのは、これまでにパウロが経験して来た、「苦難」というものでした。
 その冒頭に、「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、またむち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした」(23b)とあります。パウロが自分自身の経験を取り上げたのは、巡回伝道者たちがたびたび自分たちの苦労話をしていたからでしょう。それは、彼らにとって、称賛に値するほどの事案だったのでしょうか。「自分たちはこんなに苦労してあなたたちの役に立とうとしている」とは、聞き方によっては恩着せがましくも聞こえますが、そんな素振りは少しも見せず、それを牧会に役立てようとするなど、さすが弁論術に長けたソフィストたちと感心します。アレキサンドリヤ・フィロンのユダヤ・アカデミーでは、ギリシャ語によるユダヤ教教育をしていましたが、アポロの紹介例(使徒19:24)でも見られるように、弁論術を中心としたソフィストの教えも取り入れていたようです。

 弁論術という点からは、パウロはとても彼らに太刀打ち出来なかったようです。それはコリント教会の人たちにも知られていて(第二書10:10)、なによりもパウロ自身、それを十分承知していました。彼はどうも話し下手だったようです(同10:1)。しかしパウロは、弁論術など目指してはおらず、そもそも、そのようなことは、「愚かな自慢話」として、語るにも躊躇されることだったのです。ここでパウロに出来るのは、経験した出来事をそのまま語ることでした。事実、パウロはそれにほとんど説明を加えていませんので、簡単に読み過ごされがちですが、説明を要するところもありますので、丁寧に見ていきたいと思います。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります」(24)とあります。具体的な数字を上げているのは、恐らく、その時代の人たちにとっても、詳しい説明が必要だったからでしょう。たとえ、その数字がパウロの経験した苦難の回数でなかったとしても、その数字には、パウロの思いが隠されているように思われます。


Ⅱ いのちをかけて

 「三十九のむち」とは、ユダヤにおけるむち打ちの刑罰が、四十を超えてはならないと律法に定められていたからです(申命記25:3)。そのむち打ちが「五度」というのは、パウロが迫害者から福音伝道者に転身したことで、憎まれていたからでしょう。「むちで打たれたことが三度」とある「むち打ち」は、それとは別のローマの刑罰で、杖で打たれたもののようです。ところが、イエスさまが十字架に磔けられる前に加えられたむち打ちは、数本の革ひもに金属片がついた「フラゲリオン」と呼ばれるローマの極刑でしたが、ローマ市民権を持つ者には免除されていましたから、恐らくパウロは、それは免れたと思われます。ただ、ピリピでむち打ちに遭ったときには、牢獄の看守がその打ち傷を洗っていますから(使徒16:33)、「三度」の中には、それほどのことも含まれていたかも知れません。パウロは、この他に、ユダヤ独特の刑罰・「石打ち」刑に遭ったことや、三度の難破と一昼夜海上を漂ったことも上げていますが、これらは幾度もいのちの危険に晒されたことがあるとの証言と聞いていいでしょう。これらは、そうした一つ一つのケースにおいても主の恵みによって守られて来たという、パウロの証言なのです。パウロは、背骨が曲がって、足が不自由だったと伝えられていますが、もしかしたら、その身体的不自由さは、このような過酷な刑罰のためではなかったかと想像されます。

 「幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難に会った」(26)とありますが、帝国内の平和が担保されていたかに思えるローマ帝国社会においても、全体的には、決して治安が良かったとは言えない状況があったと言うことでしょう。総督が目を光らせて治安を維持している筈の地方自治体が、総督自身によって無法地帯にされているケースも珍しくはなかったのです。ヨセフスのユダヤ戦記などを見ますと、治安維持のために派遣されたローマ軍団でさえ、時には略奪者・殺人者になっていたのです。そのような中で、町々村々を巡りながら伝道して行くには様々なリスクが伴うのだと、パウロは、今、巡回伝道者たちをも含め、伝道者を受け入れながら教会を守ろうとしているコリント教会の人たちの伝道者理解に、踏み込もうとしているのでしょう。


Ⅲ 祈りの家で

 ところが、この苦難の羅列には、別にもっと重大な意図が込められているのです。
 26節前半には、「川の難」「盗賊の難」……と、自然界の脅威とともに帝国社会が持っていた七つの脅威が並べられていますが、その最後に、「にせ兄弟の難に会い」という項目が加えられていることです。「~の難」とこれには、ローマ帝国社会に進出した初期教会がくぐり抜けなければならなかった、大きな関門という意味が込められているのですが、この「にせ兄弟の難」が項目の最後に置かれているのは、それが教会を食い荒らすもっとも始末の悪い危険なものであるとの認識が、パウロの内にあったからでしょう。この「にせ兄弟の難」は、恐らく、巡回伝道者たちの教えと、その教えに囚われていたコリント教会の人たちを指しているのでしょうが、それは初期教会に共通の問題でした。特にコリント教会では、そこに、イエスさまを信じる信仰自体に大幅な修正が加えられなければならないという、パウロの意識が込められていると聞かなければなりません。

 パウロが見ていたのは、教会の人たちの、「イエスさまを信じる信仰」でした。牧師不在のコリント教会が巡回伝道者たちを受け入れたのも、それが教会のためになると信じて疑わなかったからでしょう。しかし、一部の人たちの逸脱した立ち方が、次第に、教会内のイエスさまを信じる信仰そのものに問題を生じさせていったのです。パウロが見ていたのは、その人たちの不信仰でした。「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかる諸教会への心づかいがある」(27-28)とあります。この数々の苦労話の背景には、教会の人たちの祈りがどこかに霞んでしまっているという、パウロの嘆きが浮かび上がって来るようです。祈りの欠如は、自然界や社会がもたらす脅威以上に、教会成長の妨げとなっているのです。それは、現代教会においても、最大の問題点ではないでしょうか。

 私たちのこの小さな働きのためにも、多くの方々の祈りがあります。ただその祈りに支えられてここまで来たと言ってもいいでしょう。しかし、牧師や伝道者のだれもが同じように祈りに支えられていると言えるでしょうか。福音の働きに召し出された者たちは、多かれ少なかれ、パウロと同じ悲しみを背負っているのだと、どうか覚えて頂きたいのです。初期教会時代の巨人・パウロでさえ、祈りに支えられてでなければ伝道者を続けて行くことは出来ないと、ここには、そんな弱さがさらけ出されているようです。まして、現代、多くの人たちが教会を離れ、福音から遠ざかっている中で、どんなに小さくても、伝道者のために祈ることが忘れられてはならないと思うのです。イザヤ書に、「まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、私の契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。』」(56:4-8)とあります。この祈りを覚えたいではありませんか。


Home