コリント人への手紙Ⅱ


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新しく聞き直すことを
コリント第二 11:16-23a
エレミヤ書   23:23-32
Ⅰ 対決すべきは?

 「繰り返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます」(16)とパウロは、11:1のことばを繰り返します。それはパウロが今まで何度も考えてきたことですが、愚か者になると、つまり彼は、これまで敵として攻撃して来た者たちと同じ土俵に上がる決心をしたと言うのです。

 パウロは、「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします」(17-18)と、彼らの領域に踏み込もうとしています。自慢話とは、11:21b-12:10で描かれていることですが、その冒頭には、「人があえて誇ろうとすることなら、私もあえて誇りましょう。彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(21-23)とあります。パウロが自分の自慢話を「愚かな、恥ずかしいこと」としているのは、そこには、彼が敵として攻撃している者たちと同類と受け取られる危険性があったからです。ここでは「ヘブル人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」と、民族の血が繰り返し強調されていますが、そもそも、ユダヤ人の血の純潔性など、当時すでに、全く当てにならないものになっていました。しかし彼らは、すべての時代を通して、その血統を誇ってきました。中でもそれを重んじていたのは、国王を御輿に担ぐ預言者集団だったのです。

 バビロン侵攻の時代を生きた預言者エレミヤは、「見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる―主のことば。―彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない」(23:32)と記しています。彼らとは「偽預言者集団」のことですが、その彼らは、昔から神さまの民を間違った方向へ誘ってきたのです。エレミヤは、神さまから、「バビロンに捕らわれて生きよ」と聞きましたが、偽預言者たちは、選びの民が神さまから見捨てられることなどあり得ないと豪語していたのです。ここでエレミヤが聞いた神さまのメッセージは、そんな彼ら偽預言者たちの間違いを正すものでした。パウロは、自分の宣べ伝える福音が、「別の福音」、つまり、偽教師たちの教えと同類にされることを断固拒否したのです。


Ⅱ 声を和らげて語っても

 パウロの敵は、アレクサンドリヤ・フィロンのユダヤ・アカデミーからの推薦状をもってコリント教会に乗り込んできた巡回伝道者たちですが、彼らは、今やギリシャのあらゆる都市で高度な宗教思想を誇る、「グノーシス」の神話認識を武器としていました。パウロは、紀元一世紀半ばに異端思想をもって浮かび上がって来たこれら巡回伝道者たちを、イスラエルを破滅へ導いた偽預言者集団に重ねているのでしょう。エレミヤ書は、そんな預言者集団との戦いの記録です。彼らは敵意を顕わにしてエレミヤを迫害しましたが、そのためエレミヤは「悲しみの預言者」とまで呼ばれています。イスラエルを世俗的な国の一つに陥れようとするそんな動きは、モーセやエリヤやダビデの時代……にも、イスラエルの歴史全体に深く入り込んでいました。今、ギリシャ世界に建てられたイエスさまの教会にも、そんな動きがあるのです。

 箴言に、「声を和らげて語りかけてきても、信じるな。その心には七つの忌み嫌われるものがある。憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石を転がす者は、自分の上にそれを転がす。偽りの舌は、虐げられている者を憎み、滑らかな口は滅びを招く」(26:25-28)とあります。これはバビロン捕囚中に編集されたと思われますが、そこにもこうした戦いがあったことが暗示されています。箴言の終盤はペルシャ時代になっていますが、そこではすでに、ユダヤ人の価値観・宗教観は多様化しており、その多様化した宗教観・宗教思想は、時代を経てコリント教会にまで届いていました。パウロは今、その宗教思想に戦いを挑んでいるのです。「多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにする」とありますが、ここでパウロが始めようとする自慢話は、敵の武器と紙一重で、それは危険な戦いでもありました。まかり間違えば、パウロも巡回伝道者たちの一人と見なされ、その福音も、数ある神話の一つにされかねなかったからです。しかしパウロは、そこに参戦してくださる神さまの助けを疑わず、「あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか」(19-20)と、多少の皮肉を交えながら、コリント教会の人たちを持ち上げ励ましています。そこには、どれほど傲慢なサタンの策略に対しても、主の民の群れは必ず主が守られるとの確信があったのです。


Ⅲ 新しく聞き直すことを

 「言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです」(21)とパウロは、サタンの力を纏った巡回伝道者たちに惑わされて、収拾がつかなくなっているコリント教会の人たちに、素直に自分の弱さを認めて信仰に立とうではないか、そこには主の守りがあるのだからと勧めています。パウロは、「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(12:9)と自らの体験を語っていますが、それこそ信仰者の立ち方ではないでしょうか。

 そしてここで、パウロの、「私もあえて誇りましょう。彼らはヘブル人ですか。私もそうです。……彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(21-23a)との主張に込められた、もう一つのことに触れておかなければなりません。

 「福音」の歴史には、バビロン捕囚を生きた預言者、使徒、後の伝道者たちが、ややもすればねじ曲げられようとする福音を問い直しつつ、そこに新たな意味を発見、提供してきた歴史があります。パウロも、ギリシャ文化躍如たる中で、そのような発見を重ねていたのでしょう。グノーシスが猛威を振るった初期教会時代、世的権威を纏ったカトリックに対抗した宗教改革時代、そして現代、別の福音が教会を荒らし回っている中で、「イエスさまの福音」を取り戻すために、真に福音が語り掛けているメッセージを、聞き直さなければなりません。エレミヤは、「わたしは近くにいれば、神なのか。 遠くにいれば神ではないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか」(23:23-24)と神さまのことばを聞き、イスラエル王家の安泰のみを願って「希望の神学」を語っていた偽預言者たちと対決しました。彼らは王家お抱えの預言者集団でしたから、エレミヤの「バビロンに捕らわれて生きよ」というメッセージとは、根底から違っていました。それ故エレミヤは、彼ら預言者集団から徹底的に迫害されたのです。

 しかしながら、ここで私たちは、偽預言者たちが提唱した「希望の神学」はまた、近代自由主義神学が語る現代人へのメッセージでもあると知らなければなりません。そこにあるのは人間の期待であって、神さまはおられないのです。そこから「神は死んだ」という神学まで生まれたのですが、神さま抜きの、自分たちの希望だけが語られるメッセージ、それこそまさに、現代教会が抱える問題の中心ではないでしょうか。

 旧約学の碩学として知られる故浅野順一師は、「預言者の真偽の問題は、神の言を受くる預言者自身の人間の問題である。時の中に正しく立って神の言を聞かざるとき、我々はいつしか偽の預言者となる。時を離れては言は真実に聞き得られない。言による神と人との交わりは時の中にある」(「イスラエル預言者の神学」)と言っておられますが、そのことばを改めて噛み締めたいと思います。日々新しく語り掛けられる神さまのことばをどう聞くか、繰り返し自問する者でありたいと願います。


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