コリント人への手紙Ⅱ


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信仰の戦いに参戦して
コリント第二  11:5-15
エゼキエル書 13:17-23
Ⅰ 福音をねじ曲げないために

 パウロは今、コリント教会に入り込んでいる巡回伝道者たちに戦いを挑んでいるのですが、そこでパウロは、彼らは「私たちが宣べ伝えなかった別のイエスさまを宣べ伝えている」と、激しく攻撃しています。今朝のテキストは、その続きです。

 それは、「私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろなばあいに、そのことをあなたがたに示して来ました」(5-6)と始まります。「あの大使徒たち」とは、「話は巧みではないにしても」という一文から浮かび上がって来る、「弁論術に長けた人たち」のことで、それはまた「アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロ」(使徒18:24)を思い出させますが、巡回伝道者たちは、アレキサンドリヤのフィロンのもとで、そのような訓練を受けていたのでしょう。フィロンのユダヤ・アカデミーはギリシャ語圏に建てられたユダヤ神学の砦でしたが、そこでは、当時ギリシャ社会に復権しつつあった、ソフィスト的訓練が取り入れられていたと思われます。アレクサンドリヤはギリシャ文化の粋を集めて建てられた大都市ですが、そこからは、かつてのアテネに代わる、最新鋭のギリシャ文化が発信されていました。「大使徒」とはソフィストたちが好んで用いた表現ですが、巡回伝道者たちが自分たちに冠せたその尊称を、パウロはここで大胆に皮肉っているのでしょう。彼らは、巧みな弁論術をもって、自分たちが「使徒職」にあることをアッピールしていましたが、「知識について」とは、その辺りのことを言っているのでしょう。彼らが、「先進的な」という魅力あるネーミングのもとで、浅薄な知識をもってイエスさまの教えを推し量るその姿勢は、当時のソフィストやグノースティコイ、そして、この現代文明社会にも見られる、共通の姿勢と言えるのではないでしょうか。

 パウロは更に、「それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに伝えたことが、私の罪だったのでしょうか」(7)と言っています。パウロがコリント教会から報酬を受け取らなかったのは、本物の使徒ではなかったからとする噂が流れていましたが、パウロは、金銭の授受がパトロンとクライアントの関係を確立するという、ギリシャ社会の習慣を熟知していました。それは現代にも言えることで、福音の伝道者であっても、「給料」を受け取ることで、教会が伝道者に対して優位に立つという状況です。その給料による「拘束」は、伝道者が伝える福音を、どこか微妙に損なってしまう恐れがあるのです。その危険性を回避するために、パウロは、コリント教会から謝礼を受けないと、それがパウロの伝道者としての矜持でした。


Ⅱ 愛溢れる行動を

 しかしパウロは、マケドニヤ諸教会からの献金を、喜んで受け取りました。「私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです」(8-9)とあります。「給料」とあるのは、コリント教会への皮肉でしょう。パウロが喜んでマケドニヤ諸教会からの献金を受け取ったのは、それがコリント教会のためだったからです。マケドニヤ教会の人たちは、パウロがコリントにイエスさまの教会を建てようとしているその働きを、支えたいと思ったのです。彼らの献金は、パウロの働きを支えるために、喜んで差し出されたものでした。「マケドニヤから来た兄弟たち」とありますが、ここで用いられている「来た」という現在完了形には、「来つづけている」という意味が含まれていますから、マケドニヤの兄弟たちは、入れ替わり立ち替わりコリントに来て、パウロの働きを手伝っていたのでしょう。ここには、「他の諸教会から奪い取って」などと非常に強いことばが用いられていますが、それは、コリント教会のために犠牲を払ってくれる人たちがいると、コリント教会の人たちに、それを覚えて欲しかったからです。彼らは、マケドニヤ諸教会からの愛の献げ物に、見習うべきだったのです。マケドニヤの諸教会からパウロに差し出された献金は愛に基づくものでしたが、パウロがそれを喜んで受け取ったのも、彼らへの愛からでした。その「愛の行為」こそ、パウロが、コリント教会の人たちに、是非とも覚えて欲しいと願っているものでした。

 コリント教会は、商業都市に建てられた教会だからでしょうか、それが「献金」であっても、お金が絡むことには、かなりシビアだったようです。けれども彼らは、他の人たちのために喜んで差し出すものは神さまに覚えられると、知らなければならなかったのです。パウロが強硬にコリント教会からの報酬授受にこだわったのは、何よりも、パウロを養って下さるのは神さまご自身であると、コリント教会の人たちに、そのことを知って欲しかったからです。


Ⅲ 信仰の戦いに参戦して

 パウロがコリント教会からの報酬を受け取らず、マケドニヤ諸教会のことを引き合いに出しているのも、ただただそれは、コリント教会の人たちが、多額の「謝礼」を受け取っている巡回伝道者たちの福音が、イエスさまの福音とは別のものであることに、気付いて欲しかったからなのです。「私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります」(10-15)とあります。

 彼ら巡回伝道者たちの教えには、イエスさまの福音とは違って、これといった「カノン」がありません。フィロンのアカデミーから出て来るものは、「グノーシスの教え」と一致する、奇妙な創作神話に満ちていました。パウロが言うように、そこにはサタンの知恵が絡んでいて、サタンは光の御使いにも変装していましたから、その教えは非常に巧妙で、コリント教会の人たちがその正体を見抜くことは、極めて難しかっただろうと思われます。サタンが加担するなら、その主張や教えは、とたんに魅力あるものに思えて来るからです。ここで、現代の私たちに対して行われるサタンの画策の、典型的パターンを二つ紹介しておきましょう。一つは、魅力的な「別の福音」の提供です。「別の福音」、それはサタンの罠に陥った人の目に、いかにも魅力あるものに映るのです。もう一つは、イエスさまの福音に対する疑義、教会や牧師に対する不信感などの芽生えです。それらがイエスさまを信じる信仰から私たちを脱落させるのです。信仰者の家庭を内部から崩壊させることも、サタンは厭いません。それは、福音に敵対するために、非常に有効だからです。もし、そうした徴候が感じられるなら、それはサタンの画策と疑っていいでしょう。サタンは、誰が真にイエスさまに属するかをずる賢く見極め、その人をターゲットにするのです。

 パウロが挑んでいる戦いは、神さまご自身の戦いでもありました。バビロン捕囚時に、人々を惑わして神さまから引き離したのも、偽預言者たちでした。「あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(エゼキエル13:22-23)とは、彼らに語られた神さまのことばですが、預言者エゼキエルは、バビロン捕囚中のユダヤ人コロニーでそれを聞きました。真の預言者たちは、捕囚の中でも、神さまのことばに聞く信仰の戦いを、コツコツと続けていたのです。そこには、パウロの巡回伝道者たちとの戦いも、現代の私たちのこの世との戦いも重なるでしょう。信仰の戦いを諦めてしまう人たちがいるのはとても残念なことですが、主の約束を信じ、この戦いを戦い抜こうではありませんか。


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