コリント人への手紙Ⅱ


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主に愛された者と
コリント第二 11:1-4
イザヤ書   54:2-8
Ⅰ 巡回伝道者たちの舞台に

 10章でパウロは、巡回伝道者たちの、限度を超えて自分たちを大きく見せようとする自己推薦と、パウロや他の人たちが苦労して築いてきた働きの実を、あたかも自分たちの功績のように誇っていることに対し、強い反応を示しています。そこには「彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしているが、愚かなことである」(10:12)とありますが、それは、二世紀になって生まれる信仰者のスケール「カノン」ということば(聖書の正典を指す)を先取りしたもので、巡回伝道者たちが、そのスケール「カノン」に、「自分自身」に置いていることへの反論です。残念ながら、この時点でコリント教会の人たちは、「カノン」の何たるかなど全く念頭になく、忍び込んで来る異端に、まるで無防備です。コリント教会の人たちにとって、イエスさまを信じる信仰の基準・スケール「カノン」が何なのか、それを知ることは、きわめて重要なことでした。巡回伝道者たちのカノンが「己中心」であると見抜いたパウロは、キリスト者の拠って立つ「カノン」がイエスさまの愛であると、それを明確にしなければならないと強烈に意識したのでしょう。その「カノン」を確立するために、パウロは、巡回伝道者たちと同じ舞台に上がりました。12:13まで続くこのフレーズは、その舞台で始まった彼らとの戦いであり、パウロの証言なのです。

 「私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです」(1)と始まるこのフレーズは、「愚か者」「愚かな」「愚かさ」という一連のことばによって彩られています。パウロは今、選択の余地なしとして、仕掛けられた戦いに勝利するために、「愚かさの主張」という舞台に上りました。その舞台上で滑稽なピエロを演じようと、節操のない愚かさをコリント教会の人たちの前にさらけ出すのですが、それは、これまでのパウロからは考えられないことでした。しかし、ここでパウロは、あえてそれに挑んでいます。彼は、これまで何度も、「誇る者は主を誇れ」(第一書1:31、第二書10:18)と言って来ましたが、教会を蝕もうとするサタンの力を前に、もはや見栄に拘っている場合ではないと感じたのでしょう。なぜなら、フィロンの牙城から遣わされたユダヤ人教師たちを排斥しなければ、パウロを霊の人と期待しているコリント教会の人たちに、応えることが出来ないからです。もし、この問題を見過ごしにするなら、彼らユダヤ人たちは、イエスさまの福音を、たちまち別のものに変えてしまうでしょう。


Ⅱ 愛が実を結ぶように

 「愚かな自慢話」を……とパウロは、それでもまだ逡巡しています。11:21に「言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません……」とありますが、よほどきまりが悪かったのでしょう。しかしパウロは、コリント教会の人たちが、忍耐して聞いてくれることを期待しています。なぜならそれは、「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています」(2)と、神さまの愛に基づくパウロの、彼らへの愛だったからです。彼らは、その愛を受け入れました。なぜなら、先の「涙の手紙」を破棄してしまった彼らも、この第二書に組み込まれた「涙の手紙」は、素直に受け入れたと思われるからです。

 「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」(2)とあることも、彼らの気持ちを和らげたのではないでしょうか。
 これは終末の出来事ですが、今、ここでパウロは、花嫁たるコリント教会の人たちの、父親役を担おうとしています。イスラエルでは、花嫁の純潔は、父親が保証するのが習わしでした。教会でキリストの花嫁として迎えられるためには、純潔が求められるのですが、こんなにも問題の多いコリント教会がキリストの花嫁として迎えられるために、パウロは今、「献げることにした」と、自らを花嫁の父親と宣言しているのです。その宣言に、コリント教会の人たちはどう応えるのでしょうか。彼らは、もう父親の助けなど必要ないと、あたかも自分の力で一人前になったかのように、勘違いしているのですが、現代の私たちも、召して下さった主への感謝と共に、そこには私たちのために捧げられた多くの祈りがあったことを、忘れてはならないでしょう。

 イザヤ書に、「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。―あなたを贖う方、主は言われる」(54:1-8)とあります。これは、問題あるイスラエルを花嫁に見立てて語られた、預言者の黙示ですが、イザヤは彼らのうちに、神さまの「あわれみ」による希望を見ていました。パウロもまた、イエスさまの十字架によって罪贖われたコリント教会の人たちのうちに、大きな未来を見ようとしているのです。問題は残りますが、パウロの愛が実を結びつつあると感じられます。コリント第二書のパウロ最後の挨拶文には、「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと……」(13:11-12)とあります。コリント教会は、イエスさまの共同体に組み込まれていたのです。教会を離れる人たちが増えているこの現代にも、「あなたはわたしの民である」と、主の慰めが聞こえて来るではありませんか。


Ⅲ 主に愛された者と

 「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」(3)とあります。エバとアダムは、自分たちがその物語の主人公だなどとは、思ってもいなかったでしょう。それほどサタンの策略は巧妙なのです。隔てられたこの何千年かの時間は、そこで繰り広げられた神さまとサタンとの熾烈な戦いを、見事に覆い隠してきました。しかし、サタンの神さまへの反抗は現代も綿々と続けられ、聖徒たちを食い荒らそうと、サタンは今もその牙を磨いているのです。そのことを私たちは、肝に銘じて置かなければなりません。

 パウロは、再び巡回伝道者たちに話を戻します。「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです」(4)とありますが、この「ある人(巡回伝道者)」は、サタンの持ち駒なのです。彼らは、パウロが「宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝え」ました。これは、ここしばらく取り上げて来た、「グノースティコイ(グノーシス者)」を指していると思われますが、彼らは、イエスさまの出来事を再解釈し、十字架とよみがえりの福音とは全く別の福音(神話)を作り上げました。最近取り沙汰されているグノーシス主義文書の中の神話には、そんな物語が幾つもあります。彼らと手を結んだサタンは、そこに、奇妙な魅力に満ちた霊の力を吹き込んだのです。巡回伝道者たちにそんな力があったのではなく、彼らを操るサタンにその力があったのです。パウロは「あなたがたはみごとにこらえている」と言っていますが、それはことばの綾で、サタンに対抗できる人などいる訳がありません。それを「異なった霊」「異なった福音」と識別して対抗するためには、真のイエスさまの福音に耳を傾け、それを纏わなければなりません。パウロが今、こんな愚かな自慢話を続けているのも、イエスさまの福音には神さまの愛と恵みがいっぱい詰まっていると、コリント教会の人たちに、それを気付いて欲しいと願っているからです。それは、現代の私たちにも言えることでしょう。

 イエスさまを現在化される御霊の働きに身を委ねるなら、その愛と恵みは、私たちをも包み込んで下さるでしょう。ここで再び、「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。―あなたを贖う方、主は言われる」(54:7-8)とある、イザヤ書のことばに耳を傾けようではありませんか。その愛を受け止め、愛溢れる者になりたいと願うなら、愛が冷え切っていると言われるこの現代にも、何らかの実を結んでいけるのではないでしょうか。私たちはすでに、その愛を、主イエスさまから十分に頂いているのですから……。


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