コリント人への手紙Ⅱ


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戦いに打ち勝って
コリント第二 10:1-6
イザヤ書  61:1-11
Ⅰ イエスさまの福音に立って

 10:1から13:10までは、「涙の手紙」の再録と言われています。この箇所が、もともとコリント第二書のこの位置にあったのかどうか、それとも後代の編集者たちによってここに加えられたのか、写本にはその痕跡がなく判りませんが、パウロはどうも、意図してこれをこの箇所に置いたと感じられてなりません。もしそうだとするなら、パウロはこの箇所を、第二書の補足として書き加えたのでしょうか。岩波訳はこれを、「手紙B」として、2:4-7:4(手紙A)の後に入れています……。

 この「涙の手紙」は、第一書と第二書の中間に書かれ、テトスに託してコリント教会に送られたものですが、半年間コリント教会の人たちとパウロとの和解に奔走したテトスがマケドニヤのパウロのもとに戻って後、パウロは再びこの第二書を書いて、テトスに託してコリント教会に送っています。パウロがこの第二書に「涙の手紙」を再録したのは、コリント教会との間に、真の和解が完全には成立していなかったからでしょう。パウロは、真の和解を目指して、「涙の手紙」で語られた問題をここでもう一度取り上げ、これを第二書の補足・続きとしたと考えられます。

 ともあれ、10:1から13:10までを、コリント第二書の続きとして見ていきましょう。それは次のように始まります。「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。」(1)

 この箇所からは、パウロの非常に攻撃的な一面が感じられます。これは、コリント教会の人たちがパウロを、使徒でもなく、霊の人でもなく、自分たち以上に弱く支離滅裂な者としたその悪意に、鋭い攻撃を始める序章なのでしょう。「面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者である」とは、彼らの批判の反復ですが、パウロは、イエスさまから異邦人の使徒として召し出されたとき、人々を救いに招く務めと同時に、裁きに委ねる務めをも託されたと表明しています。パウロは、近い将来、必ずコリントを訪れると宣告しつつこの手紙を書いているのですが、その時には、救いと共に、裁きをも持って行くことになるのでしょうか。


Ⅱ 私たちの戦いの武器は

 「私たちが肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては、大胆にふるまうべきだと私は考えていますが、そちらに行ったときに、その確信から強気にふるまわないですむように願います」(2)とあります。パウロは実際に、この第二書をテトスに託した後、自分もコリントに行こうとしていました。13章には、それをなぞるかのように、「私があなたがたのところへ行くのは、これで三回目です。私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、罪を犯している人たちにあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません」(1-2)とあります。その訪問は、半年以上後に実現するのですが、テトスの尽力もあって、彼らのパウロに対する気持ちも和らいだからでしょうか、「強気にふるまわないですむように願った」とある通りになりました。先にコリント教会は、「ある人」を処罰した(第二書2:6)とありますので、特に厳しい裁きはなかったと思われますが、もしかしたら、若干、そのようなことがあったかも知れません。パウロは、しばしば激しい口調で彼らを糾弾していますが、本質的には愛の人で、人の痛みを我がことのように受け止める人だったのでしょう。いやパウロは、自分が迫害者だったことを終生忘れず、イエスさまの優しさを自分にもといつも願っていたと思われます。パウロの戦いは、教会がイエスさまの群れとして堅く立つことでしたが、何よりも、彼らがその内面で罪と戦って勝つことを願っていたのです。その葛藤は、パウロ自身の内で最も激しく(参照 ロマ7:19-25)、パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」(3-4)と言っています。そこからは、パウロ自身の内面での、厳しい葛藤が浮かび上がって来るようです。

 「私たちの戦いの武器は肉の物ではなく」とあります。ここには隠されていますが、「霊の賜物」は、敵の要塞をも打ち破ることが出来ると言っているのでしょう。敵とは、神さまに敵対し聖徒たちを惑わそうとするサタンであり、霊の賜物とは、そのサタンに打ち勝つために私たちに注がれる、神さまの力なのです。第一書に「ある人には御霊によって知恵のことばが、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが、またある人には同じ御霊による信仰が、ある人にはいやしの賜物が、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられている」(12:4-10)とあります。このような数々の働きをもって私たちに内在される聖霊なるお方に、一切を委ねようではありませんか。そのお方が私たちの敵と戦って下さるのです。パウロが掲げる「御霊の賜物」は、私たちの内なる戦いに具体的な備えを提供するものですが、何よりもこの戦いは、御霊ご自身の戦いだと覚えなければなりません。


Ⅲ 戦いに打ち勝って

 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている」(5-6)とありますが、ここからは、コリント教会の人たちが陥っていた宗教思想との戦いが浮かび上がって来ます。彼らは、「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」に囚われていました。恐らくそれは、グノーシス主義に立つ人たちを指しているのでしょうが、それはプラトンやストア哲学と結びついた宗教思想であり、非常に高度な知識を有していましたから、放置すれば、多くの人たちを巻き込んで、教会全体をその前に跪かせることになりかねません。パウロがこれほどまでにコリント教会の問題に拘ったのは、それが今後のローマ・ギリシャ世界の宣教に、大きな影響を及ぼしかねなかったからです。その戦いを勝ち抜くためには、特別な力が必要でした。パウロは、「さらに神の知識に敵対して立てられるあらゆる障害物をも破壊し、そしてすべての邪まな思いを捕縛してキリストに対する従順へと導く」(5、岩波訳)と言っていますが、この「障害物」とは、高ぶりに至る肉の知恵を言っているのでしょう。しかしながら、その時代の教会は、この戦いの熾烈さを、いささかも認識していませんでした。それだけにパウロは、一層この戦いに全力を注がなければならなかったのです。「キリストに対する従順へと導く」という言い方には、御霊の参戦が示唆されているのですが、「特別な力」とは、そのことを言っているのでしょう。この戦いは、御霊の助けによってこそ、勝利することが出来るのです。

 イザヤ書には、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(61:1)とあります。この「わたし」とはイエスさまのことですが、それはまた、聖霊を注がれたパウロであり、私たちでもあるのです。戦いの火ぶたは切って落とされました。私たちは、イエスさまの力を帯びて、この戦いに戦士として遣わされているのです。グノーシス主義という宗教思想は、現代、そうはっきり見えてはいませんが、恐らくサタンは、それに代わる確実な罠を仕掛けているのでしょう。油断するなら、私たちは、たちまちその罠に捕らえてしまうのです。その罠から逃れるためには、イエスさまの福音を正しく纏う必要があります。パウロは、戦いのさ中にあるエペソ教会の人たちに、「私たちの挌闘は、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、神のすべての武具を摂りなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:11-18)と書き送りました。それは同じ戦いにある私たちへの勧めでもあるのですが、そこには、「あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている」(10:6)と、神さまの勝利宣言があるのです。


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