コリント人への手紙Ⅱ



主に愛された愛をもって
コリント第二 1:12-14
エレミヤ書   31:3-6
Ⅰ 聖さと誠実さをもって

 今朝のテキストは、パウロの自慢話のようにも聞こえますが、何気なく挿入されたこの小さな記事には、福音の真髄に迫るストリーが隠されているようです。そのストリーを追ってみたいと思います。

 コリント教会の人たちは、パウロに激しい対抗意識を燃やしていました。特に第一書が送られた後、不信仰を厳しく糾弾するその内容から、テモテの報告を受けて急遽コリントを訪れたパウロに、憎悪の声さえ浴びせています。為す術もなくエペソに戻ったパウロは、「涙の手紙」と呼ばれる失われた第三の手紙を、テトスに託さなければなりませんでした。しかし、彼らの怒りは、テトスの努力もあっていくらか静まり、パウロとの関係改善を望む声も出てきたとの報告を受けて、この第二書には、彼らとの交わりの復活を願う思いが溢れています。しかし、その交わりの復活の為には、どうしてもパウロの弁明が必要でした。パウロはこの第二書を、まずその弁明から始めようとしています。「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです」(12)と、パウロは、自分が立っているところは、「神さまの聖さと誠実」であると告白しています。その「聖さと誠実」は神さまの属性でしたが、パウロは、自分はその属性を託されて、この世の人々、特にあなたがたコリント教会の人たちの前に立っているのであり、「これこそ私たちの誇りである」と胸を張っているのです。

 「聖さ」とは、「清い」状態と思われていますが、むしろこれには、「区別された」というニュアンスが濃いのです。つまりそれは、この世とは区別された、神さまの価値基準を指していて、コリント書では、第一書にも第二書にも「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」(1:1)とあるように、パウロの使徒職を指すと聞かなければなりません。それはロマ書に、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(1:1)と、より詳しく描かれています。新改訳では、「聖さと神から来る誠実」と訳されていますが、むしろこれは、「神さまの聖さと誠実」と訳すほうがいいでしょう。聖さも誠実も、神さまだけにある特別の資質だからです。しかしパウロは、その議論は彼らには難しいと、言い方を変えました。自分は「人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動している」のだと……。「人間的な」とは、「肉的な」という意味ですから、その知恵も、冷静で論理的ということより、動物的な本能というニュアンスに近いと思われますが、それは彼らの、好き嫌いという動物的感情でパウロに対峙していることを言っているのでしょうか。神さまの「恵み」は、そんな動物的本能とは全く別の知恵でパウロを満たしていました。


Ⅱ 恵みに生きる者と

 「聖さと誠実」に立つとは、恵みの中に生きることなのです。それは、多くの問題が渦巻き、愛が失われ、人々の不信感や裏切りが横行するこの世においても言えることでしょう。コリント教会は、人間を第一とする、この世の価値観(自己中心につながる)の中で建てられていたのでしょうか。そんな現代的価値観の中では、神さまの聖さや誠実より、「人間的・肉的知恵」が優先されるのはやむを得ないのかも知れませんが、そんな中でも神さまは、ご自分を信じ従う者に寄り添い、溢れるほどの恵みを注いで下さるのです。「イエスさまの十字架によって神さまと和解した」(ロマ5:10)とは、そのことを言っているのでしょう。パウロは、その和解によって生かされ、神さまの溢れる恵みの中を歩んで来ました。ですから、「肉の知恵によらず、恵みによって」と言い得たのです。

 パウロは、「分かたれた者」らしく、誠実でありたいと願い、その生き方は、コリント教会の人たちの前でも変わりませんでした。ですからパウロは、こう言っています。「私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解出来ること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。」(13) 彼らが「理解出来ること」とは、コリントへの旅行計画の変更(17)についても言えることですが、「パウロのことばと行動は一致していない」という非難への、反論と思われます。この短いフレーズには、福音の真髄とも言えるストーリーが込められているのですが、彼らには、注意深く読むなら浮かび上がって来るそのストーリーを、見つけ出す注意深さも、それを読み解く知的能力も信仰の奥行きもなく、そのことに全く気づいていないのです。そして、状況に応じて自由に動くパウロの行動は信用出来ないと、自分たちの貧弱な知性や信仰の不足を棚に上げて、パウロへの不信感を膨れ上がらせていたのです。

 パウロはそれらのことに反論しながらも、「あなたがたが十分に理解してくれることを望む」と、彼らの立ち位置に寄り添いました。それはパウロが、神さまの恵みの中で思考し、行動しているから言えたことですが、あなたたちもその恵みを覚えて欲しいと願っているのです。彼らに足りなかったのは、知的能力だけでなく、恵みを恵みとして受け取る信仰の訓練でした。「私たち」とありますが、チームパウロの宣教行為には、「涙の手紙」を託されたテトスがコリント教会に留まって、彼らの誤解を解こうと忍耐したことも含まれるのでしょう。その「恵みに生きる者」の仲間にあなたたちも加わって欲しいと、パウロの溢れる思いが伝わって来ます。


Ⅲ 主に愛された愛をもって

 神さまの、溢れるほどに注がれる恵みの中で生きる。それが「聖さや誠実」という生き方に繋がるのですが、現代人たる私たちは、そこから遠く離れてしまったようです。そんな現代人の原点のようなコリント教会の人たちに、パウロは、神さまの恵みに包まれて歩むように願いました。この小さな記事は、「あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです」(14)と閉じられます。これは、彼らもパウロと同じ恵みに立っているのだと、それを前提に言われているのです。人間的問題の渦中にあったコリント教会の人たちにも、イエスさまを信じる信仰に立つところから、パウロの信仰の立ち方は自分たちとは違うと議論しているところがありましたから、ねじ曲がってはいましたが、「イエスさまの福音」という、共通の地盤があったと言えるのでしょう。

 そんな彼らは、自分たちに問題があるとは考えず、むしろパウロが問題なのであって、その使徒職の主張こそ、問題の元凶ではないかと思っていたようです。もし、パウロが本当に使徒であるなら、ペテロのように、その権威を示して欲しい。我々は、ペテロが主から直接「使徒」に任命されたことを知っている。アポロもアレクサンドリアのフィロンという、ユダヤ人の権威を身に帯びているではないか。そしてキリストは、ユダヤ伝統のメシアとしての権威に立っていた……と。彼らは、分裂の争いなど取るに足らないと、その批判には目もくれず、己が分派の正当性のみを主張していたのです。

 パウロは弁明から始めましたが、その弁明の中心は、「(私は)神さまの恵みによって行動している」という点です。パウロは彼らの疑問に、「私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました」(1:21-22)と答えていますが、そこには、「私たちは、あなたがたの喜びのために働く協力者です」(24)ともあって、使徒の権威を振り回すことより、あなたたちを愛することこそ、使徒として召された本領なのだと諭しているのです。パウロはイエスさまの愛に立っていて、それがパウロの誇りでした。ですから、「あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りである」と言い得たのです。それは、イエスさまが寄り添っていて下さるのだから、私はこの世の価値観から脱却したところに立っている、という誇りです。あなたたちもその愛に立って欲しいと、これがパウロの弁明の中心であり、この小さな記事に隠されたストーリーであり、イエスさまの福音の真髄なのです。エレミヤ書に、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(31:3)とあります。その愛に倣い、私たちも互いに愛し合う日々を歩みたいではありませんか。その愛に立つなら、現代という時代が私たちに問いかけている、「生きることの意味」に答えることが出来るのではないか。それは「イエスさまの愛に立つことである」と、胸を張って答えたいではありませんか。



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