コリント人への手紙Ⅱ


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賜物のゆえに感謝を
コリント第二 9:12-15
伝道者の書   3:9-14
Ⅰ 感謝の祈りと賛美から

 前回は6-11節を見て来ました。このフレーズは、「豊かな贈り物は神さまの豊かな祝福を来たらせる」(NTD)として、15節まで続くのですが、長いので二回に分けて見ていこうと、前回は11節までにしました。今朝はその残りの部分、12-15節です。

 それは、「なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです」(12)と始まります。奉仕のわざは「聖徒たちの必要を十分に満たす」ことであると、これは、すべての聖徒たちを念頭に言っているのでしょう。なぜならパウロは、すべての教会が、他者を第一にと、互いに助け合う愛の交わりを構築することを願っているからです。エルサレム教会への献金は、その第一歩でした。

 そしてパウロは、他者への献金より更に大切なものがあると続けます。それは、「神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです」とある(原典自体がそうなっている)ところですが、これだけではよく判らないとして、後世の編集者たちは、編集過程で何かが抜け落ちたのではないかと考えたようです。補足されたことばを加えた写本などないのですが、そこにはaliter interpungitur(異なる句読点)があって、何かがあったのではと含みを持たせているからです。NTDの註解者はそれを、「神への感謝に至る祈りを増すことによって、豊かな祝福を来たらせるからである」と補足しています。それは、「神さまへの感謝が満ち溢れる」だけでなく、感謝に至る祈り、すなわち、他者を思う思いが膨らんで、互いに感謝し合う信仰の交わりが整えられていくことであるとして、そこに、「祈り」ということばを補足しているのです。それは、互いのために祈り合うことが、神さまの祝福を頂くことにつながると言っているように聞こえます。

 NTDの註解者は、それを、「献げる行為の本来の価値と祝福は、敬虔な行ないとしての善きわざ自体ではなく、与える者が受け取る報いでもなく、あるいはまた欠乏の緩和ですらなく、ただ事実的に行われた援助に対する感謝の祈りの中で起こる神さまへの賛美なのである」としています。恐らくパウロは、そこには「感謝の祈り」と「賛美」があると、コリント教会の人たちに、それを想起させようとしていたのではないでしょうか。他者への愛の手は、まず第一に、神さまに向かう信仰から始まるのですから。


Ⅱ 愛の交わりの広がりを

 「なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです」と、これは12節だけで完結するものではなく、さらに多くの愛の連鎖となって、福音の広がりにつながって行くと言っているのです。福音の広がり、すなわちそれは、私たちの小さな愛の手が、イエスさまを主とする者たちの世界を大きく広げて行くのだと……。そのように聞くことは、なんと嬉しいことではありませんか。

 「このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう」(13)とあります。パウロには、イエスさまの福音が、ローマ・ギリシャ世界にどのように広がって行くのかが見えていたのでしょう。それは、すべての教会の人たちが差し出す愛の手によるのだと……。その広がりに、コリント教会の人たちも、加わらなければならなかったのです。エルサレム教会のために愛の手を差し出すこと、それは、神さまの前に差し出すあなたがたの信仰告白だと言っているのです。当時のローマ・ギリシャ世界を構成していた大部分の人たちが、一握りの富む者たちからこき使われて、貧しく、ぼろぼろになって、日々の生活さえままならない奴隷たちだったことを考えますと、この愛の手がどれほどの意味を持っていたか、よくよく理解出来るのではないでしょうか。

 「キリストの福音の告白に対して従順である」とは奇妙な言い方ですが、新共同訳は「キリストの福音を従順に公言していること」と訳し、岩波訳は「キリストの福音への告白を為す従順さ」と無難な訳し方をしています。しかしこれは、原典の意味するところから少しずれているように思われてなりません。何がずれているのかと言いますと、まことに微妙にですが、上の二つの訳では、主役が「私たちの信仰告白」になってしまうからです。ここは、やはり、「キリストの福音の告白に対して従順である」と聞かなければならないでしょう。イエスさまの福音が先にあって、その福音が私たちの信じますという真摯な告白を受け入れてくださる。つまり、福音が主役なのです。恐らく、その私たちの告白を正しく判定するのも福音であって、パウロは、私たちの差し出す愛の手がその福音に適合し、基準になると言っているのです。それはまるで、「イエスさまの福音」にはイエスさまの全人格が込められていて、福音そのものが私たちをそこに招いていると聞こえてくるではありませんか。

 「従順である」とは、エルサレム教会への献金を言っているのでしょう。神さまが全勢力を注がれた「福音」が私たちに提供されているのですから、そこには、私たちの応答がなければなりません。信仰の告白としての応答です。従順とは、その応答なのです。

 ですからパウロは、「また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです」(14)と続けました。愛の交わりは、このように広がって行くのです。それが神さまの方法でした。


Ⅲ 賜物のゆえに感謝を

 この14節には、すべての教会が神さまの前で極めて具体的に扱われ、それぞれの必要が小さな所までも満たされ、抱えた一つ一つの問題を根本的な解決にまで導いてくださるという、「恩恵」の原則が示されています。大都会の大きな会堂に集う人たちにも、田舎の片隅の小さな教会に集う人たちにも、イエスさまは等しく私たちの主であって、それぞれの必要に応じて愛の手を伸ばしてくださるのです。愛も祈りも神さまの恵みも……、教会の大小や地域差、抱えている問題の大小に関わらず、等しく「あなたはわたしのもの」と声をかけてくださる、主がおられるのです。これは、まことに小さな私たちにとって、大きな慰め、励ましではありませんか。イエスさまが、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)と言われたことを、心して聞きたいと思います。

  パウロは、「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」(15)とこのフレーズを閉じました。これは、このフレーズの結語というよりも、コリント第二書の結語と言えるでしょう。10~13章は、第一書と第二書との中間に書き送られた、「涙の手紙」の再録でもあるからです。

 「賜物」ということばには、注意を要します。これは、パウロ自身が神さまから頂いたもので、コリント教会の人たちにも与えられていると言っているのですが、それは、「食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこと」(伝道者の書3:13)であり、必要に応じた知恵や知識もそうでしょう。まさに「ことばにならないほどの賜物」なのです。そして、何よりの賜物は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(同21:3)とあるように、注がれた「御霊の賜物」(同12:1)であると理解しなければなりません。コリント教会の人たちだけでなく、召されてキリスト者となった者たちすべては、私たちの内でお働きになる聖霊によって、イエスさまは十字架の救い主であり、すべての良い物で満たしてくださるお方であると告白することが出来るのです。パウロは、コリント教会の人たちに、愛の人となって欲しいと願っているのですが、そこに立つための根本的な姿勢を、神さまから与えられる「(御霊の)賜物」と表現しました。イエスさまの救いに招かれているのなら、そこには、数え切れないほどの神さまからの賜物が待ち受けていると、パウロは大きな希望を語っています。その希望を見据え、本物のキリスト者になろうではないかと勧めるパウロのこの結語に、現代の私たちも、耳を傾けようではありませんか。


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