コリント人への手紙Ⅱ


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十字架の愛こそ
コリント第二 9:6-11
詩 篇  112:1-10
Ⅰ 豊かに刈り取る者となるために

 パウロは、コリント教会の人たちに、エルサレム教会への献金を勧めています。それは、難民のように海外から帰国してきた貧しい人たちを大勢抱え、極端な資金不足に陥っているエルサレム教会を支援するためでした。けれども、コリント教会の人たちは、エルサレム教会に目を向けようとはしません。ここで不思議に思うのですが、ディアスポラのユダヤ人たちはコリントにも大勢いて、彼らのシナゴグの一つが教会誕生の下地になっていましたから、当然、教会にもユダヤ人たちが大勢いたと思われるのに、なぜ彼らは、エルサレム教会の貧しい帰国者たちへの配慮に欠ける選択をしたのでしょうか。それはまるで、ユダヤに逃げ帰った人たちを、ユダヤ人の面汚しと感じているかのようです。

 そこでパウロは、コリント教会が献金を集めようとしないのは恥ずかしいことであると訴えるのですが、彼らがなぜ他教会への心配りに欠けるのか、その根本的なところを明確にしようと思ったのでしょう。これを逃げ帰った人たちへの支援だと思うなら、反発も生まれよう。だがしかし、主はそのような人たちをも御心にかけておられるのだ。その人たちが教会に辿り着いた経緯にも、主の計らいがあったのではないかと、パウロは、キリスト者の見つめる方向は、主なるお方・イエスさまであると、そこに注意を促すのです。

 この最終フレーズは15節まで続くのですが、長いので二回に分けて見ていきましょう。
 「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(6-7)と、このフレーズは、彼らのイエスさまを信じる信仰に訴えているのです。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」は、農業が文化のトップを彩っていた当時の常識でしたが、彼らはそれを理解しません。ですからパウロは、これを神さまが定められたルールであるとしたのです。「人は蒔いたものだけを刈り取る」は、災害や病害など自然条件を考慮に入れても、そこには神さまの守りと恩恵があるのではないかと言っているのです。ですからパウロは、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」と付け加えました。パウロは、コリント教会の人たちが、他の人のために、持っている物を喜んで差し出す者であって欲しいと願っているのです。それは、神さまの願いでした。あなたがたが豊かに刈り取る者となるためにと、この神さまの原則を、私たちも心を込めて覚えたいではありませんか。


Ⅱ 愛が溢れる群れに

 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」(8)とあります。ご自分の民に、すべての面に渡って配慮して下さる神さまのことは、聖書全般に繰り返し語られています。コリント教会の人たちも、そのように聞き、経験して来たに違いありません。そのご配慮は、特に、教会の貧しい人たちに向けられていたのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、しばしばそんな、生活の細かなところにまで及んでいるのです。無くし物をしたときに祈ると、不思議と見つかります。私たちの神さまは、私たちのそんな日常の細かなところにまで気を配って下さるお方なのですから。祈りとともに、その神さまの恵みを覚えたいではありませんか。

 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる」(9)とあるのは、詩篇112篇からの引用ですが、そこには、「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり、直ぐな人たちの世代は祝福される。繁栄と富はその家にあり、彼の義は永遠に立つ。……彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち、彼の角は栄光のうちに高く上げられる」(1-10)とあります。「この人は散らして」という少々奇妙な言い方は、「種を蒔く」ことを指しているのですが、ここには、自分たちの所有するもの一切は神さまの恵みによる、という文脈が隠されています。そこに立つなら、それを持たない貧しい人たちと、喜んで分かち合うことが出来るのではないでしょうか。後で触れますが、種は、蒔かれた後に雨は不可欠ですし、また、日差しも、暑さ寒さも必要です。それほどの手入れがなければ、蒔かれた種は実を結ぶことが出来ないのです。つまり、蒔くことで結んだ実を、神さまからの祝福として、貧しい人たちに分配していく。これが神さまのルールなのです。「その義は永遠にとどまる」とは、神さまに覚えられることを言っているのでしょうか。コリント教会にはユダヤ人たちも大勢いましたから、この詩篇は彼らにとって馴染あるものであり、そのように聞いていたと思われるのですが……。

 逃亡奴隷など、貧しい労働者たちが多かったコリント教会で、本当は、このメッセージが、もっと聞かれなければならなかったのです。それなのに、この時のコリント教会は、貧しい人たちを置き去りにして、温かみの消えた群れになっていました。現代の教会も問われるところでしょう。少なくとも、イエスさまの名が冠せられた教会は、そうした愛が隅々にまで溢れる群れでなければなりません。イエスさまご自身が愛のお方だからです。他の人たちに愛の手を差し伸べることは、決して義務ではありませんが、喜んで為す、イエスさまを信じる信仰告白の、大切な一コマではないでしょうか。


Ⅲ 十字架の愛こそ

 私たちが他者に注ぐ「愛」について、もう少し踏み込んでみたいと思います。
 「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです」(10-11)とあります。種もパンも、神さまが下さる恵みなのです。しかしながら、「多く与えれば多く受ける」とは、果たして本当なのでしょうか。与えて豊かになった例も多くありますが、そうではなく、多くを差し出して貧しくなった例も、現代、至る所に転がっています。パウロは懸命に働いて人々に与えましたが、結果として、「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともあった」(11:27)と言わざるを得ませんでした。現代という時代は、そんな弱者に優しくない方向へと歩み始めているようです。それはやがて、力と力がぶつかり合う、戦争へと向かっていくのでしょうか。そんなきな臭い雰囲気が、漂い始めています。

 しかし、そんな現実の中でパウロは、「(神さまは)あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださる」と断言しています。
 ここには、持っている「種」を蒔かなければ、食べる物はおろか、来年以降収穫する種さえ失うことになると、そんな警告は聞こえて来ません。なぜなら、懸命に働いて種を蒔き、その結果を神さまに委ねるのは、キリスト者にふさわしいことだからです。それこそキリスト者の見つめるべきところでしょう。与えることで、飢えてもいいではないですか。その先のことは、神さまがご存じなのですから……。愛とは、神さまに、イエスさまに愛されていることを知り、何よりも、その方を愛することを学ぶことではないでしょうか。私たちの愛が神さまに向くなら、そこに、不平等を訴える不満や妬みや憎しみなど、入って来る余地はありません。なぜなら、私たちは神さまから愛されていて、その愛は、私たちが気づくよりずっとずっと前から注がれているからです。パウロも、そのような神さまの愛、イエスさまの十字架の愛の中で生かされてきました。私たちも、同じところを見つめなければなりません。十字架の愛に招かれていることが、私たちキリスト者の拠って立つところであると、心しておきたいのです。コリント教会の人たちの不平不満は、その視点を欠いていたからと思われてなりません。詩篇112篇に、「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち、彼の角は栄光のうちに高く上げられる」(9)とあります。この「彼」とは、イエスさまのことでしょう。私たちも、そのイエスさまとともに永遠の義に招かれていると、そのことに心を止めていようではありませんか。


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