コリント人への手紙Ⅱ


27
祝福の贈り物が
コリント第二  9:1-5
ゼカリヤ書 8:10-13
Ⅰ 真に誇るべきは

 エルサレム教会への献金を勧める9章の記事は、8章とは扱い方が違っています。パウロはここにきて、どうしても更に強い調子で勧告しなければならないと思ったのでしょう。

 9章は、「聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう」(1)と始まります。エルサレム教会への献金は、コリントで働いていたときにも語り、第一書でも繰り返していたことですが、それを、わざわざここで「書き送る必要はない」とまで言っているのは、恐らく、コリント教会の人たちがその献金を躊躇していることに、苛立ちを覚えたからではないでしょうか。「奉仕」ということばに注目して頂きたいのですが、献金は、キリスト者が、神さまに仕えるために、心を込めて差し出すものなのです。しかしながら、コリント教会の人たちは、その献金を、善意の「援助」と、根本的なところで勘違いしていたようです。ですから、エルサレム教会から要請もない状況でのこの援助に、二の足を踏んでいたのでしょう。パウロは、苛立つ気持ちを抑えながら、彼らがこの献金の大切さを理解するように、「私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました」(2)と、ことばを選んでいます。パウロは、マケドニヤの教会の人たちの熱心(8:1-4)をコリント教会の人たちに重ね、その熱心を称賛しているのですが、万策尽きたパウロは、彼らの名誉心に訴えようとしたのでしょうか。彼らの名誉心と誇りは極めて強いものでしたが、これだけ勧められても、その反応は鈍いのです。

 彼らの名誉心や誇りは、恐らく、所属しているコリント市が、伝統あるギリシャの中心都市・アカヤ州の州都であり、ローマに次ぐ帝国第二の大商業都市であることから来ていたのでしょう。コリント教会は、そうした所に建てられた教会でした。今は確かに小さな家の教会の集合体ではあるが、全体が集まれば大きな群れになり得ると、壮麗なギリシャ神殿にも匹敵する会堂を建てたいとの夢が膨らんでいたのでしょう。彼らは、分裂分派の争いの渦中にあって、「私はペテロにつく」、「私はアポロにつく」という主張とともに、自らを知恵ある、力ある、正しい者とし、自分たちが教会を支えていると誇っていました。しかし彼らは、その自分たちも、彼らが馬鹿にし無視していた、貧しく、愚かな者であることを忘れていたのです。彼らの名誉心や誇りは、大商業都市コリントであったり、そこに建てられた大きな群れを有するコリント教会であったりと、借り物に過ぎなかったのです。真に誇るべきは、彼らを救いに召し出されたイエスさまであるのに……。


Ⅱ 自分たちのためにではなく

 他教会が抱えている痛みに心が届いて行かない彼らの問題点は、自分たちは「他の教会とは違う」という根拠のない自信であり、大商業都市に建てられた教会という、虚像を膨らませることに夢中になっていたことにあるのでしょう。そんなコリント教会には、自らをさも偉い者であるかのように売り込んで、市の有力者たちから推薦状を取り付けて教師になった人たちがいました。ユダヤ人教師たちや、巡回伝道者たちです。そうした状況下で大きくなっていった群れは、そこで献げられる献金の額も、大きかったのでしょう。その献金額は、彼らの自尊心をくすぐり、名誉心や誇りを膨らませるに充分だったのではないでしょうか。

 けれども彼らは、その巨額の献金を、何に使おうとしていたのでしょうか。恐らく、その大部分は、群がって来た教師たちの謝礼になったのでしょうが、今、彼らは、自分たちの誇りに見合う、神殿に匹敵するほどの教会堂を建てようと願っているのです。立派な教会堂を建てるためには、もっともっと沢山の資金が必要でした。他教会のために献金するそんな余裕などないと、彼らの事情も窺えます。立派な教会堂は、人々を招くに有効な手段になるでしょうし、様々なメリットもあります。しかし、それが主の教会が立っていくための絶対条件ではないと、そこは間違ってはならない点でしょう。

 パウロは、「私が兄弟たちを送ることにしたのは、このばあい、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです」(3)と言っています。もし、会堂のために積み立てられた相当額の献金が、エルサレム教会への支援に回されたなら、エルサレム教会はどんなに助かったことでしょう。しかしコリント教会は、それをエルサレム教会に送ろうなどとは考えません。パウロが望んだのも、「エルサレム教会への献金」として、パウロがコリントに行くまでに、相当額の献金が集められることでした。会堂を建てるための献金をストック出来る教会が、その気になれば、貧しい教会のために、かなりの額の献金を集めることも可能だったのではないでしょうか。しかし、コリント教会でその献金が集められた形跡はありません。


Ⅲ 祝福の贈り物が

 パウロはこのフレーズを、「そうでないと、もしマケドニヤの人々が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、悲しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください」(4-5)と締め括っています。「恥をかくことになる」とは、彼らの名誉心に訴えた勧めだったのでしょうか。

 今朝のテキストは、「エルサレム教会への献金の勧め」の序文ですが、9章全体を彩るキイワードとして、いくつかのことばが盛り込まれています。そのキイワードを見ていきましょう。

 一つは、何回も繰り返されている、「贈り物」ということばです。「贈り物」とは、もらった人が喜びと感謝に包まれ、自分もそのような贈り主になりたいと願う「贈り物」のことですが、心のこもった贈り物は、次から次へと広がって行くのです。かつて、敗戦した日本に、戦勝国アメリカから沢山の贈り物が届けられました。チョコレートも、赤ちゃん用の粉ミルクもありました。手縫いのパッチワークの毛布には、どれだけ暖かい睡眠をプレゼントされたことでしょう。神戸の大震災の時もそうでした。冬の寒さを暖かく包む沢山の毛糸の帽子、震源地・淡路で被災した教会の婦人会から届けられた暖かく煮込まれた大量のおでん、ガスが出なかった頃の沢山のボンベ式ガスコンロなどなど……。そんな贈り物のどれもこれもが、主ご自身のお働きと思われるものばかりでした。そこには、主と主にある兄弟姉妹の、愛ある心が込められていたのです。イエスさまは私たちにご自分のいのちを贈り物にして下さったと、そんなことが伝わってくる贈り物でした。私たちも、そんな贈り物をしたいと願わされました。

 そして、もう一つは、「好意に満ちた」ということばです。喜びと感謝に包まれる贈り物と言いましたが、差し出すことで、「差し出した人が喜びと感謝に包まれる」そんな贈り物をしたいではありませんか。「好意に満ちた」とは、新改訳2017や岩波訳では、「祝福の」となっています(原文でも)。新改訳2017は、この4-5節を、「そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです」としています。旧約の時代に、「あなたを祝福する」とは、財産を相続する際に用いられたことばでした。「祝福の贈り物」とは、差し出す者も受け取る者も主の祝福に包まれるのだと、その意味で言われているのでしょう。祝福は神さまから来るのですから……。聖書は、そんな神さまからの祝福の物語で満ちています。

 旧約聖書から、二箇所紹介しましょう。「救いは主にあります。あなたの民に、あなたの祝福がありますように。」(詩篇3:8)、「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」(ゼカリヤ8:13) 私たちも、そんな神さまの祝福のうちを歩みたいではありませんか。


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