コリント人への手紙Ⅱ


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愛の心を
コリント第二 8:1-6
申命記 10:12-19
Ⅰ エルサレム教会への献金事業

 8~9章では、アンテオケ教会でバルナバとパウロによって始められたエルサレム教会への献金という一大事業が、コリント教会でも心を込めて行われるようにとの勧めが語られます。

 エルサレムに住む貧しい人たちの多くは、住む家も働く場所も収入もなく、物乞いもままならない中で、教会を頼っていました。その人たちの大半は、海外から帰国した人たち(ギリシャ語を話す人たち)だったようですが、そもそも、なぜ彼らは海外に移住していたのでしょうか。使徒11:28に世界的飢饉への言及がありますが、彼らはそんな中で土地を手放し、海外に逃れた人たちだったのかも知れません。しかし、ユダヤに帰ったものの、ユダヤはこの時すでに、弱者に優しくない社会になっていました。エルサレム教会は、初期教会時代から、富む人たちが「財産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配して」(使徒2:45)いましたが、そんな人たちを抱えて、貧しい人たちへの分配は、常態化していました。

 そんなエルサレム教会を支えようという動きが、海外の異邦人教会で広がっていました。彼らはこれを、自発的愛の行為として(使徒11:29-30)始めたのです。エルサレム教会は、全教会の原点という意味で、母なる教会として慕われて来ましたが、そのエルサレム教会が、いつまでも模範教会として立ち続けていけるようにとの願いからです。異邦人教会の献金は、そのためのものでした。しかし、エルサレム教会がその献金に感謝した様子は、残念ながらどこに見られず、恐らく、ユダヤ戦争敗戦(紀元70年)と共に消滅してしまったのであろうと、教会史は推測しています。

 しかしながら、今、パウロは、エルサレム教会への献金とりまとめという任務を託し、再びテトスをコリント教会に送り込もうとしています。パウロはこの時すでに、エルサレム教会のガタガタになっている内情を把握していたと思われますが、異邦人教会からこの献金を受け取ることで、エルサレム教会が、母なる教会として立ち続けられるように願っていたのでしょう。けれども今ここで、内部にいくつもの問題を抱えているコリント教会は、たとえ共同体の原点と言えども、エルサレム教会への献金を素直に受け入れることには、抵抗があったようです。自分たちも貧しい人たちを多く抱えていたからです。ですからパウロは、「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたにも知らせようと思います」(1)と、この問題に慎重でした。


Ⅱ 片隅の教会から

 「ピロの子であるペレア人ソバテロ、テサロニケ人のアリスタルコとセクンド、デルベ人のガイオ、テモテ、アジア人のティキコとトロフィモ」(使徒20:4)と、エルサレム教会に送る献金を託した人たちのリストに、テサロニケから二人も名前が上げられているのは、マケドニヤの諸教会が一丸となって集めた献金の額が、大きかったことを暗示しているようです。ピリピ教会は、以前からパウロを経済的に支えていましたが、他の教会も同様に、他教会への祈りと献金を続けていたのでしょう。

 そんなマケドニヤの教会を、パウロは、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました」(2-5)と紹介しています。これは、町の人たちが、「世界中を騒がせてきた者たちがここにいる。彼らは『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしている」(使徒17:6-7)と訴え、それは時には暴動にまで発展して、キリスト者たちが帝国内の反逆者とされて来たことを指しているのでしょう。当時、キリスト教会は、彼らの文化を破壊するものと思われていました。「彼らの文化」とは、神々の神殿を中心とした宗教文化を指しているのですが、ユダヤ教はその文化には融合せず、キリスト教はなお一層そうでした。それなのに、キリスト教会には、ものすごい勢いで人々が流れ込んでいましたから、町の人たちが警戒したのも、頷けるではありませんか。マケドニヤの教会は、町の人たちの厳しい反発に晒されていたのです。

 恐らくパウロは、富裕層を多く抱えるコリント教会が、マケドニヤの教会以上に、エルサレム教会支援に意欲を燃やしてくれることを願っていたのでしょう。パウロは、この献金を、「神さまの恵み」と表現しています。あなた方も、「力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかって欲しい」と……。けれどもパウロは、コリント第二書を書いているとき、身体はマケドニヤにいても心はコリントに飛んでいて、心ここにあらずという状態だったのでしょうか。エルサレム教会への献金が熱心に集められていることなど、念頭になかったようです。この献金のアッピールは、シラスやテモテなど、パウロと共に働いていた伝道者たちが走り回っていて、このコリント第二書が書き上がるまで、テトスもその仲間に加わっていたのでしょう。


Ⅲ 愛の心を

 「それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです」(6)とあります。恐らくテトスは、パウロがこの事業に並々ならぬ情熱を注いでいることを知っていましたから、「涙の手紙」を携えてコリントに行ったとき、本来の働きの中に、この事業を滑り込ませていたのでしょう。書き上がったコリント第二書を持ってコリントに行ったテトスは、以前にも増して、熱心にこの事業に取り組んだのではないでしょうか。しかし、残念ながら、それが実を結んだ形跡はありません。先に上げたエルサレム教会に献金を届けた人たちのリストには、コリント教会から献金を託された人の名前が見当たらないのです。註解者たちは、コリント教会からの献金は、エルサレム教会に届けられなかったのだろうと推測しています。間に合わなかったとも考えられますが、パウロがコリントに行くまで一年近くありましたし、その後のパウロのコリント教会滞在も三か月に及んでいますから、やはりコリント教会では、他教会への祈りや愛の心は育たなかったのかと思えてなりません。

 エルサレム教会への献金は、パウロが心血を注いで取り組んだ事業でしたが、それにしては、マケドニヤやアジヤの教会に宛てた手紙にはそのことへの言及がなく、これを正面から取り上げているのは、ロマ書とコリント第一、第二書だけです。中でも8-9章と多くのページを割いているコリント第二書は、突出しています。それは、ローマやコリントの教会が、その献金を渋っていたからではないかと考えられますが、その勧めを喜んで受け入れたのがマケドニヤやアジヤの教会であり、受け入れなかったのがローマやコリントの教会だったのかと、得心がいきます。大きな教会が全部そうだとは言いませんが、大きな教会ほど、外面的な見栄や体裁にばかり心が動いて、弱者への心配りに欠けるところがあるのではないでしょうか。

 それは、現代教会の問題でもあるでしょう。かつて、イスラエルがカナンの地に自分たちの国を建てようとして、その地を望み見ながらモーセがした最後のメッセージには、「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国では在留異国人であったからです」(申命記10:17-19)とあります。イスラエルは、みなしご、やもめ、在留外国人といった弱者や、貧しい者、悲しむ者に優しくあれと教えられて来ました。その最先端に立って愛の心を実践されたのが、イエスさまです。ヘブル書には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。……ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)とあります。私たちも、イエスさまがされたように、すべての兄弟姉妹たちと共に、弱い人たち、悲しむ人たちに愛の心を注ぐ者でありたいと願います。


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