コリント人への手紙Ⅱ


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人のために悲しむ道を
コリント第二 7:8-12
イザヤ書  53:1-12
Ⅰ 神のみこころに添った悲しみ

 テトスが戻って来て、コリント教会の人たちが「涙の手紙」を読んだことで、「パウロとの和解」に心が傾き始めたと、嬉しい報せをもたらしました。その報告を聞いて、パウロが喜んだことは言うまでありません。すぐにでもコリントを訪問したいと願いましたが、その前に一通の手紙を書いてテトスに託しました。それがこのコリント第二書で、紀元56年初春のことです。この手紙の中でパウロは、「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです」(8-9・2017年版新改訳)と、「あの手紙」・「涙の手紙」の補足をしています。これについては、1:1-24、2:1-13でも触れられていて、恐らく第二書には、識別は難しいのですが、その内容はあちこちに見られ、主に10-13章がそれではないかと推測されています。今朝のテキストでも、「あの手紙」と、「涙の手紙」のことが取り上げられ、極めて重要と思われる中心主題が暗示されているようです。内容には触れられませんが、1:1-2:13、10-13章を参考に、その辺りを探ってみたいと思います。

 このテキストの中心主題を考えてみたいのですが、それは、「あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(9-10)とあるところです。コリント教会の人たちを覚醒させ、抱えていたあらゆる問題の本質を浮かび上がらせ、それを「罪」と受け止めて悔い改めに導き、彼らをキリスト者としてあるべきところに辿り着かせたのは、11節も含めて三回も繰り返されている、「神のみこころに添った悲しみ」でした。これは「死をもたらす世の悲しみ」とは区別されていますが、「死をもたらす世の悲しみ」については、現代、あまりにも身近な数々のニュースがありますので省きましょう。パウロが勧めたキリスト者の在り方は、「神のみこころに添った悲しみ」という方向です。これはこの箇所だけにある極めて特殊な言い方ですが、パウロがなぜこんな言い方をしたのかも含め、その意味を探ってみたいと思います。


Ⅱ 私たちの立ち方は?

 これを解き明かすキイワードと思われるところを、パウロ書簡から二箇所取り上げたいと思います。一つはロマ書からです。「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」(14:15)とあります。この問題で、誰かが「心を痛めている(悲しんでいる)」とあるのは、エルサレム教会初期の状況(使徒6:1)に重なります。コリント教会にも同じようなケース(第一書11:20-21)があり、これは初期教会に共通の問題でした。富む者と貧しい者に関わる飲食の問題だけではなく、それは、人々に悲しみをもたらし、争いや混乱を激化させ、最終的に、自分にその悲しみが跳ね返って来るという問題です。つまり、愛のない状態の蔓延を心配しているのです。コリント教会の人たちは、第一書でそれを指摘されて怒り狂い、その怒りは、パウロや派遣されたテモテにも向けられました。パウロとの関係が悪化したのは、コリント第一書でパウロがそれを鋭く指摘したからです。
 けれども、「涙の手紙」とテトスの懸命な働きは、彼らに、自らの罪を真摯に悲しんで悔い改めることを教え、立ち直る最良の道筋を整えたようです。

 そしてもう一つは、コリント第二書に取り上げられている、「愛の勧め」です。「あなたがたは、むしろその人を愛し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます」(2:7-8)とあります。11節に「あの問題」とあるのは、そのことを言っているのでしょう。コリント教会の人たちは、問題を起こした人にすべてを押しつけて、パウロの非難を切り抜けようとしていました。けれどもそこに、「涙の手紙」とテトスの懸命な働きが届けられたのです。コリント第二書には、「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです」(2:10)とあります。

 「涙の手紙」の再録と思われる12章には、「私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか」(15)とあります。これはアイロニー(反語)ですが、それは、「ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです」(11)とあるところにも見られます。けれども、このアイロニーは、ある意味で、彼らが変わり始めたことを示唆しているようです。


Ⅲ 人のために悲しむ道を

 このアイロニーは、彼らに、「神のみこころに添った悲しみ」を思い起こさせたのでしょう。問題を起こしたその人の言動は、彼らの目にも、神さまを悲しませるものであると映りました。彼らはそのことで悲しみ、そこに「弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意」が生じたのですが、それらはいづれも、自分たちが陥った状況の弁明、憤り、恐れだったのではないでしょうか。「慕う心」はパウロへの思い、「熱意」は解決に向けた熱心ですが、彼らはその熱心を、問題を起こした人の処罰に向けたのです。しかし、彼らはそこで、イエスさまはその人のためにも十字架に磔けられたのだと気づき、愛の心をもって祈りつつ、執りなしをする必要があったのではないでしょうか。先に「神のみこころに添った悲しみ」がこの箇所の中心主題であると言いましたが、そこに重なる「愛の心」こそ、今回のテキストの中心主題なのです。「愛の心」を育てるなら、その人は孤立することなく、彼らは本当の意味で、「自分たちがすべての点で潔白であることを証明」することが出来たのではないでしょうか。いや、「愛の心」に立つなら、「潔白の証明」など、必要なかったのではないでしょうか。だからこそ、これはアイロニーなのです。このフレーズは、「それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです」(12)と締め括られました。

 この「私たち」を「イエスさま」と言い換えるなら、その真意が浮かび上がって来るでしょう。パウロはここで、イエスさまのことを言っているのです。パウロの悲しみはイエスさまの悲しみであり、パウロの愛はイエスさまの愛でした。コリント教会の人たちも、その愛を育てなければならなかったのです。その時、パウロから注がれた愛は神さまからの愛であり、「パウロとの和解」は「神さまとの和解」であると気づくのです。もし彼らが、イエスさまを十字架に磔けたのは「自分たち」であると気づいたなら、その人の問題は自分たちの問題であると理解出来たのではないでしょうか。「弱さ」や「悲しみ」は自分の問題であり、「罪」と言い換えてもいいのですが、それは、他人に転嫁するものではありません。パウロは、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(12:9)と言っていますが、イエスさまはその私たちの弱さ・罪を担われました。パウロはその主に倣っているのです。

 「悲しみの人で、病を知っていた」苦難のしもべを、イザヤは、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。……しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。……彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」(53:1-12)と証言しています。人のために悲しみ、祈り、とりなし、自分のことを後回しにするのはとても難しいことですが、イエスさまはその道を歩まれました。私たちもパウロに続き、その道を歩む者でありたいと願います。


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