コリント人への手紙Ⅱ


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信仰の戦いを
コリント第二 6:14-7:1
イザヤ書    52:7-12
Ⅰ キリストとベリアルに何の調和が

 先週、「コリント教会の人たちとパウロとの関係改善」という新しい主題が始まると、その序文6:11-13と7:2-4を見て来ましたが、間に挟まれた6:14-7:1は問題提起であると言いました。今朝は、その「問題提起」が何であるかを探ってみたいと思います。

 この箇所は、多くの近現代の批評的神学者たちによって、後世の編集者による挿入句ではないかと言われて来ました。NTDの註解者も、この箇所が黙示文学的文体で書かれていることから、パウロ文書とは異質のものであると断定(「第二コリント書の神学」参照)しています。しかし、パウロ的ではない文体や言葉や用法でも、コリント教会の人たちに必要ならば、それだけの研鑽を重ねて来たパウロですから、それらを自在にその引き出しから抽出することも可能だったのではないでしょうか。むしろ、これをパウロのものではないとする人たちが提題する問題点には、コリント教会に対してパウロが抱いたような危機感が感じられないのです。近現代の批評的神学を標榜する人たちは、「ベリアル」を、単に後期ユダヤ教に潜り込んで来た社会悪としていますが、コリント教会の人たちも、そこに潜む危険性に全く気づいていません。パウロはそこに、危機感を持ちました。「問題提起」とは、その危機感のことなのです。

 パウロはこのフレーズを、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう」(14)と始めます。パウロは、イエスさまの福音の光の中を歩むべきコリント教会の人たちが、神さまに属さない不法とくびきを共にしているではないかと指摘しているのです。そんな闇の世界は、彼らには釣り合わないものであると……。「くびき」の風景は、地峡の上に建てられた大商業都市コリントにもありました。地峡に掘った溝の上に台車を置いて船を通すその作業に、大きな台車を引くために何頭もの馬が「くびき」に繋がれていたのですが、パウロはその風景を日常的に見ていたのでしょう。その「くびき」が、信者と不信者、正義と不法、光と暗やみ、そして、「キリストとベリアル」という対比に凝縮されています。「つり合わぬくびき」、それがコリント教会の人たちの問題でした。「キリストとベリアルにどのような調和があるというのか。あるいは信仰ある者にとって、不信の者と何の共通部分があるというのか」(15・岩波訳)と、パウロは強いことばで、彼らの「くびき」に決定的な審判を下しているのです。


Ⅱ 神さまの宮であるために

 このヘブル語の「ベリアル」は、「極悪非道な者」という意味で、申命記、士師記、サムエル記には「よこしまな者(新共同訳は「ならず者」)」として多数回出てきます。死海文書中の「光の子達と闇の子達との戦い」には、闇の子の指導者として出て来ているそうです。NTDの註解者は、「サタンの道具として終わりの日に現れるであろう反メシアの名前」としていますが、これはローマ帝国時代に広がった後期ユダヤ教では、悪魔の名とされています。コリント教会の人たちは、そうしたベリアルの価値観のもとで、分裂分派の争いや不法に陥り、愛餐の食卓では偶像に供えた肉を食べ、貧しい人たちを愛餐から締め出し、近親相姦に走っていました。彼らはそれが「自由」の名のもとで人を悪に誘い、イエスさまから自分たちを引き離す実在のサタンとは気づいておらず、単なる宗教思想として魅了されていたようです。コリント第二書2章には、ある人が教会全体に悲しみをもたらした(5)とありますが、それを放置するなら、古いパン種のように、教会全体をベリアルの手に陥らせることになると言っているのです。

 パウロは、そんな残り滓とも言えるものは取り除かなければならないと、固く決心していたのでしょう。ですから、イエスさまの福音に与ったあなたたちは、ベリアルと同じくびきにつけられてはならないと厳しく戒めました。と同時に、コリント第二書2章では、「あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかも知れません」(8)と、その人を赦してあげるように切実に願っています。不寛容さもまた、ベリアルの仕業なのです。イエスさまにつく者は同じ信仰にある兄弟姉妹を大切にしますが、ベリアルにつく者は、自分と同様に他の人もいつかは裏切るだろうと、いつも人を疑心暗鬼の目で見ているのです。間違いを咎めることは大切ですが、そこには、愛の心をもっての執り成しが大前提でしょう。それがなければ、咎める者自身がベリアルの手中に陥ってしまうからです。結局のところ、彼らには、「イエスさまの愛によって生かされているか」という、自らへの問いかけが必要でした。

 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです」(16)と、このパウロのことばは、その意味で聞かれなければなりません。神さまの聖さと愛を求める者であるかと自分に問いかけるなら、自分の中から異教の神々を排除し、ベリアルにつく部分を取り除かなければなりません。一方、ベリアルについていると見える他者に対しては、愛をもって勧告する。そんなキリスト者としての立ち方こそ、「生ける神さまの宮」にふさわしいと言えるのではないでしょうか。


Ⅲ 信仰の戦いを

 当時の社会全体が、異教の神々への祭儀的秩序で占められているという強力なコンセンサスのもとで、イエスさまだけを唯一の主であると告白することは、命がけでした。なぜなら、神々を拒否する者は国家の敵であり、反社会的な者だったからです。パウロは、そのことを念頭に、「あなたがたは生ける神さまの宮である」と言ったのです。その時代と同様に、多様な価値観を有しているかに見える現代でも、「キリスト教徒」として宗教の一つに加わるなら問題はないのですが、イエスさまの福音は徹底的に宗教とは対立する枠組みを持っていますから、受け入れられないのです。つまり、イエスさまの福音には、社会全体が不寛容なのです。

 パウロは、旧約聖書の幾つもの箇所を繋ぎながら、「神はこう言われた」と記します。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」(16-18)と、これがイスラエルに求められていたことでした。原則的に、イエスさまの福音につく者は、イスラエルの(聖書)信仰を引き継いでいるのですが、異教の者から分離せよと言われています。「汚れた者」とは、唯一全能の神さまとは異なる、異教の神々の価値観に生きる者を指していますが、「汚れ」はベリアルが好むものであり、それに手を染めないことが要求されているのです。「彼らと分離せよ」とは、そういう意味だと覚えておきたいのです。

 イザヤ書52:11には、「去れ、去れ。そこから出て行け。汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。主の器を運ぶ者たちよ」とありますが、それは、「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。……」(7-)と始まる、イエスさまの福音の預言の中で言われているのです。ですからパウロはこのフレーズを、「愛する者たち。私たちはこのような約束が与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」(7:1)と結びました。「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ」と、これがパウロの真筆かと疑われる表現ですが、「神さまを畏れる」ことを第一にするなら、それも可能でしょう。「神さまを畏れる」と、恐らくパウロは「神さまとの和解」を念頭に言っているのですが、それがこのフレーズを「問題提起」とする所以です。それは十字架とよみがえりのイエスさまを覚えることで到達するのですが、それこそ、全人類の歴史を通して、人の向かうべき道筋でした。私たちの歴史は、神さまのいない歩みを拡大させて来ましたが、恐らく、パウロが描くコリント教会の問題は、私たちへのサンプルなのでしょう。パウロは、信仰の戦いを立派に戦い抜き、走り終えるように(Ⅱテモテ4:7)と弟子テモテを励ましていますが、終末を迎えようとしている私たちも、神さまと和解しつつ、その信仰の戦いを戦い抜き、走り抜こうではありませんか。


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