コリント人への手紙Ⅱ



祈り執り成す者と
コリント第二 1:3-11
詩 篇     4:1-8
Ⅰ 慰めもまたキリストに

 今朝のテキストは、「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」(3)と、神さまへの賛美で始められます。これは、テトスからコリント教会の人たちの著しく改善された報告を聞いたパウロの、喜びなのでしょう。その喜びは、「慈愛の父」「すべての慰めの神」ということばに込められています。そんな神さまに向かって、共に喜び、賛美を献げようではないかと、パウロはコリント教会の人たちに呼びかけているのです。

 神さまの慈愛と慰めをパウロは、自分の身に起こったこととして、「あなたがたにも……」と訴えています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」(4-5)と。後半5節の「私たちにキリストの苦難があふれている」は、コリント教会の人たちが否定し攻撃していたパウロの使徒職が、イエスさまの任命であることを裏付けるものです。パウロは、自分に降りかかった様々な苦難を、イエスさまの十字架に重ねて見ています。その十字架には、罪のために死と向き合わなければならなかった私たち人間の、あらゆる苦悩をご自分のものとして苦しみ、私たちに代わってその裁きと死を受け入れ、私たちの罪をその身に負って下さったイエスさまの、ことばに尽くせない恵みがぎっしりと詰まっているのです。その恵みを人々に伝える使徒としてパウロは、様々な苦難に遭遇して来ました(11章参照)。パウロを召し出しされたイエスさまは、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(使徒9:16)と言っておられますが、この第二書には、「このような外から来る苦難のほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがある」(11:28)とあります。コリント教会が抱える多くの問題も、パウロを悩ませるものでしたが、その苦難をもってパウロは、私たちの救いであるイエスさまの十字架を身に帯びている、と主張しているのです。パウロが召し出された使徒職とは、その意味でした。ですからパウロは、一切の苦難から助け出して下さったイエスさまの恵みをもって、「慰めもまたキリストによってあふれている」と宣言し、その恵みと慰めは、あなたたちにも注がれるのだと言っているのです。


Ⅱ 主の民が共有するものは

 イエスさまの十字架の恵みに立って欲しい。これがまず、コリント教会の人たちに覚えて欲しい事柄でした。いや、コリント教会の人たちだけではなく、パウロの目は、現代の私たちにも注がれているようです。ですからパウロは、続けてこうも言っています。「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと同じ苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです」(6-7) 苦難とともに慰め・救いを共有する、それはイエスさまの教会に属する者たちの特権ではないでしょうか。それほど教会に襲いかかって来る問題は多く、激しいのです。主に敵対するサタンの攻撃は、ことさら主に愛されている者たち・イエスさまの共同体に向かっています。コリント教会も、サタンの攻撃対象になっていたのでしょう。苦難の渦中にあるとき、誰もそれを恵みとは思えません。けれども、苦難は恵みの前奏曲なのです。

 パウロは、身をもってそれらのことを経験していましたから、イエスさまを信じ寄り頼むと言うなら、その信じているところにしっかり立ちなさい、と勧めているのでしょう。襲いかかる苦難を切り抜け退けるために必要なのは、自分の力や知恵ではなく、悩む者たちに寄り添い、ともに悩み苦しんで下さる、十字架の主の赦しと恩寵を覚えることなのです。そして、「慰めとともに苦難を」共有することが出来るのは、苦難に遭遇している兄弟姉妹たちを思って祈る、聖徒たちの祈りであると言っているのです。その祈りは必ず、十字架の主・イエスさまに届いて行くのですから。パウロが「あなたがたが私たちと同じ苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っている」と断言したのは、そんな祈りがあなたがたの中にも沸き上がって来るようにとの、期待を込めたことばではなかったでしょうか。パウロの心を自分たちの心とし、苦悩する人たちの苦しみを自分たちの苦しみとする。何よりもパウロは、コリント教会の人たちに、イエスさまの思いを自分たちの思いとするように願っていたのではないでしょうか。


Ⅲ 祈り執り成す者と

 コリント教会は、起こっている多くの問題のために、キリスト者らしからぬというイメージが強いのですが、そんな中でも、心を痛めつつ祈っている人たちがいたのでしょう。ケンクレアなど、アカヤ地方にキリスト者の群れが広がっていたのは、そんな祈りがあったからと思われます。

 恐らく、エペソの騒動(使徒19:23-41)のことでしょうが、「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです」(8-11)とあります。この手紙は、コリント教会にこれを届けたテトスの補足説明とともに集会で朗読されました。パウロは、彼らの祈りが主に届いていると伝えたかったのではないでしょうか。何よりも、主ご自身が祈りを聞いていて下さると、彼らに覚えて欲しかったのです。

 エジプトに寄留して厳しい労役に苦しんでいたイスラエルの人たちを、神さまは見ておられました。出エジプト記には、「わたし(神さま)は、エジプトにいるわたしの民のなやみを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」(3:7)とあります。神さまは、イスラエルを救い出そうと、モーセを彼らのところに遣わされました。それが「民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した」(4:31)とある、彼らの信仰につながったのです。パウロがコリント教会の人たちに覚えて欲しいと願ったのも、そのところでした。ここにあるイスラエルの民の礼拝は、パウロが言う「感謝をささげる」ことだったのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、「感謝」から「礼拝」へと繋がっていくのです。礼拝の中心は、主への感謝です。そして、「多くの人々が感謝を……」とは、礼拝の広がり、つまりそこに、「宣教」が意識されていたのです。広がりのない感謝はありませんし、広がりを求めない礼拝もまた、礼拝と呼ぶにふさわしくありません。私たちの信仰は、礼拝行為へと昇華されるものでなければなりません。

 礼拝は、上におられる主とともに、苦しむ人たちに寄り添い、上へ横へと広がる信仰の行為なのです。コリント教会の人たちは、愛餐を軽んじ、その混乱のために何もかも問題ありと断罪されていますが、イエスさまへの信仰に立って祈り、感謝し、礼拝や宣教に熱心な一面もあったのでしょう。主の教会といえども、地上に建てられた教会には、多面的なところがあって当然です。その多面性の中で私たちは、主に喜ばれることが何であるかを、見つめていかなければなりません。何度も引用して来た詩篇4篇に、「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとり(広い所)を与えてくださいました」(1)とあります。価値観の多様な現代社会の中で私たちも、上へ横へと広いところに目を留めつつ、主の祝福のうちを歩みたいではありませんか。広いところとは、主ご自身のことなのですから。



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