コリント人への手紙Ⅱ


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愛と平和の神さまが
コリント第二 6:11-13
7:2-4  
Ⅱサムエル記 15:19-21
Ⅰ 心を広くして?

 「コリントの人たち」という呼びかけは、ここから新しい主題が始まることを示しているのでしょう。このテキストは、7:2-4でもう一度繰り返され補足されますが、その間に挟まれている6:14-7:1を問題提起として、7:5以下では新しい主題が展開されます。

 コリント教会の多くの人たちは、依然としてパウロの使徒職に疑惑を抱いていました。今回取り上げようとする新しい主題は、そんな彼らとの「関係改善」です。しかし、そのためには、いくつものハードルを超える必要がありました。それは彼らが、律法主義やグノーシス主義など、異なる教えに傾いていたからです。パウロはこれまでにも忍耐強く、彼らを招いてやまない主の愛と栄光を語り、やがて招かれようとする永遠の家に望みを置くよう熱心に勧めて来ましたし、また、分裂分派の争いや不品行など、教会を混乱に陥れている諸問題から離れるようにと戒めて来ましたが、「私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました」(11)とは、そのことを指しているのでしょう。パウロ独特の神学思想・「和解論」の展開には、彼らの滅びを惜しむパウロの思いが滲み出ていると思えてなりません。何故ならそれは、「パウロとの和解」という意味を含んでいたからです。ともあれ、今朝の二つのテキスト(6:11-13、7:2-4)に描かれるパウロの意識を、探って見たいと思います。

 ここで考えたいパウロの意識の一つは、「広い心」ということです。申命記に興味深い記事があります。「あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨とをもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる」(11:13-15)と、ここでは、神さまの恵みによって豊かにされるイスラエルの在り方が教えられているのですが、注目すべきは、そこに、「あなたがたの心が惑わされ(新共同訳・心変わりして)横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように、そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる」(11:16-17)という、警告が語られていることです。「広い心」には、パウロの言う意味とは真逆の、「心変わりする」という内容も有しているのです。コリント教会の人たちは、まさに「心を広く(心変わり)して」、イエスさまの福音から離れていました。「心を広くする」には、「神さまに心を向ける」という意味と同時に、さまざまな思想に心を向けて、「神さまから離れてしまう」という意味があることに、気をつけなければなりません。


Ⅱ 愛の心を

 そう聞きますと、「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」(12)と、パウロの主張がなんとなく伝わって来るようですが、もう少し考えてみたいと思います。一つは、現代でも、キリスト者になると種々の「宗教的制約下」に置かれるのではないかという、受け止め方があることです。大部分の邦訳が「制約」を、「狭められている」と訳していますが、そこから、「~してはならない」式の福音理解が一人歩きしているのではないでしょうか。そして、もう一つは、当時、グノーシス主義などさまざまな宗教思想が教会に入り込み、それらが教会の人たちに魅力あるものとして映っていたことです。つまり、神さまに心を向けないで、他のさまざまな思想に心を向けていたのです。現代の私たちも、同じ問題を抱えているのではないでしょうか。6:14-7:1ではその問題が論じられますが、今朝は、「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか」(7:1)と、パウロの回答を上げるに留めましょう。ここでは、「神さまを恐れつつ聖さを全うしようではないか」という、キリスト者の立ち方の原則が語られているのですが、パウロ自身そこに立っていて、同じ主にある兄弟姉妹として、「私たちに対して心を開いてください」(7:2)と、6:11-13にある主張が繰り返されているのです。「広い心」をそのように聞くなら、「パウロとの和解」はまさしく、「神さまとの和解」であると言えるのではないでしょうか。

 この6:12は、2017年版新改訳では、「あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです」となっています。これは2017年版が大胆に訳し変えた中の一つです。ギリシャ語原典に「愛の心」などということばはありませんが、玉川直重の「新約聖書ギリシャ語辞典」に用例としてこの箇所が上げられていて、「あなたがたはあなたがた自身の心を狭くしている。そのためそこには私たちのための余地はない(すなわち)あなたがたは自分自身の心の中に私に対する愛のための余地を許していない(自分で心を狭めているのだ)」と、英希辞典としてはポピュラーなThayerの辞書の英文説明を引用しながら丁寧なコメントがありますが、2017年版新改訳の編集者は、それを取り入れたと思われます。確かに、コリント教会には、「愛」の不足が指摘されなければならない要素があり、「(自分で自分の心を)制約している=窮屈になっている」、「狭められている(人たちの心)」は、「愛の心」に基づくものではないと言っているのでしょう。新改訳編集の基本方針は原則、「直訳」なのですが、その基本方針を曲げてまでも「愛の心」を入れたかった、編集者の思いが伝わって来るではありませんか。


Ⅲ 愛と平和の神さまが

 パウロは彼らに「愛の心」を注ぎながら、6:11-13を補足するように、「私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(7:2-4)と、繰り返しています。

 ここで3節に注目したいのですが、新共同訳では、「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです」とあります。これはⅡサムエル15章の、反逆の息子アブサロムから逃れようとしていたダビデと行動を共にしようと、異邦人ガテの王イタイが、「主は生きておられます。王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます」(21)と言った、故事を言っているのでしょう。王に退けられて人気取りを狙ったアブサロムは、城門に通じる道のそばで王に訴え出ようとする人々に自らをアッピールし、人々はアブサロムを王に担ぎ上げようとしました。6節には、「(彼が)イスラエルの人々の心を盗んだ」とあります。パウロの「あなたがたはわたしたちの心の中にいる」も、その故事を念頭に言っていると思われます。しかしパウロは、コリント教会の人たちに、アブサロムのような見せかけではない、愛の心を注いだのです。「あなたがたはわたしたちの心の中にいて」については、先に新共同訳を紹介しましたが、「生死を共にしている」は、新改訳のように、「死」を先に「生」を後にするのが正しいと思われます。なぜなら、キリスト者は、イエスさまの死に与り、そのよみがえりにも与って、神さまの御国で新しいいのちに生きることを共有しているのですから……。

 「私たちに心を開いてください」とは、主に愛されている者同士としての、パウロの勧めです。4節に、「私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」と、彼の確信が語られていますが、この「信頼」は「確信」と訳すのがいいでしょう。ほとんどの邦訳は、これを「確信」と訳しています。コリント教会の人たちは、互いに争ったり、貧しい人たちを愛餐から閉め出したりと、キリスト者としての在り方に逆行して幾度もパウロを苦しめて来ましたが、それでもパウロの彼らへの愛を押し止めることは出来ませんでした。パウロが彼らに願ったのは、「愛と平和の神さまがともにいてくださるように」(13:11)ということです。問題は残りましたが、コリント教会の人たちは、おおむねそこに立ち続けたと言えるでしょう。私たちもと願わされるではありませんか。


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