コリント人への手紙Ⅱ


17
愛を注がれたお方に
コリント第二 5:20-6:2
イザヤ書    49:7-12
Ⅰ 「和解論」の中心主題に

 今朝はパウロ「和解論」の、前フレーズに続く第二部とも言えるところです。前フレーズでは、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」(18)と、イエスさまの愛の発露としての和解論が展開されましたが、そこには、多くの問題を抱えて神さまから遠く離れていた、コリント教会の人たちの実情がありました。しかし、絶対的服従を求めるユダヤ教の贖罪論を、ヘレニズム圏の人たちに理解しやすい和解論に変えたとしても、コリント教会の人たちには、なお、唯一全能の神さまと神さまが送られた御子イエスさまを自分の救い主と認める「信仰」が求められていると、パウロはここまでを前フレーズに込めました。

 しかし、コリント教会の人たちには、まだ問題が残っていました。その問題に片をつけようと、パウロは、この「和解論」の最終フレーズを、「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(20)と始めます。「第二コリント書の神学」の著者はここで、「キリストの死そのものに人間を神と和解させる効果があったのだろうか」と、一つの問題提起をしています。そこで彼は、「(和解を)『人々の罪の責任を問うことなく』(19)と、もしこれを額面通りにとるなら、神が人間の罪を無視することとなり、怒りから慈悲の態度へと変わったという意味になる。(そうであるなら)人間ではなく、神が変わったことになり、正しい側にいるのは人間で、譲歩するのは神のほうである」と続けるのですが、さらに彼は、「パウロが言おうとしたのはこのような馬鹿げた結論であるはずがない」と言い添えています。そこには、イエスさまの死を和解の唯一の条件とは受け止めていない、使信を聞く人間の側の問題があると言っているのです。イエスさまを神と崇めて礼拝することにはやぶさかでないコリント教会の人たちも、イエスさまご自身を罪の赦しであると聞くことには、抵抗があったのでしょう。彼らは、イエスさまこそ自分たちの罪を取り除く方という「信仰」を、表明出来ないところにいたのです。パウロは、それに答える必要がありました。彼らは、ただ盲目的に「信じます」と告白するのではなく、「何を信じるのか」を知らなければならなかったのです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(21)と、パウロは今、その全容とでも言うべき、「和解論」の中心主題に踏み込もうとしています。


Ⅱ キリストの血によって義と

 今朝のテキストには、「和解論の中心主題」(21)と「和解論の基礎」(6:2)がありますが、この5:21を、パウロ和解論のもう一つの主要な箇所、ロマ書5章と比べて見ましょう。そこから、コリント教会の人たちが見つめなければならない問題点が、浮かび上がって来ると思われるからです。ロマ書に描かれた「和解論」の中心部には、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」(5:8-10・2017年版新改訳)とあります。

 ここから浮かび上がって来る第一の点は、コリント第二書に、「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」という一文が入っていることです。「罪を知らない方」ということを、ペテロ第一書は、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず……」(2:22-23)と詳説しています。ペテロ第一書は直接コリント教会に送られたものではありませんが、これも当時のキリスト者への勧めであると聞きますと、ののしられるとののしり返し、批判されると徹底的に敵対して返した、コリント教会の人たちの姿勢が浮かび上がってきます。「罪を知らない」というこの一句から、聞く者たちがどれほど罪にまみれていたか、想像出来るではありませんか。彼らは、そんな自分たちのために、罪なきイエスさまが十字架に磔けられたことを、知らなければなりませんでした。「罪なき方」とは、当時も今も、聖なる神さまを指す言い方です。パウロは、この一文をもって、そのお方が「私たちに代わって罪人とされ、十字架に死なれた」と聞くなら、神さまの救いの計画の一端が判るではないかと、訴えているのです。しかし彼らは、聞こうとはしませんでした。恐らく彼らは、イエスさまが何者なのかに疑問を持っていたのでしょう。現代人のキリスト教理解の問題点も、そこにあるようです。

 浮かび上がって来るもう一つの点は、「神さまの義となる」「義と認められる」とある、「義」の問題です。「義」とは、「正しいこと」とされていますが、法に照らした罪なき状態を指しているのではなく、それ以上の、「神さまだけが有するすべての者の基準となる正しさ」と聞くのがいいでしょう。その罪を一つ一つ明確に指摘されて怒り狂った彼らの様子は、コリント第一書全体に見られます。指摘されてなお罪に留まったのは、罪を放棄することが出来ない、彼ら自身の問題でした。


Ⅲ 愛を注がれたお方に

 もう一歩踏み込んでみましょう。彼らも、「罪を放棄し」、「義と認められる」ことを求めてはいましたが、それは叶えられません。何故なら、彼らがそれを、宗教的敬虔さによって求めていたからです。礼拝すること、祈ること、主の聖餐に与ること……、確かにそれらはキリスト者の麗しい伝統です。しかし、それを宗教儀礼とするか、主への信仰の発露とするか、その違いは紙一重かも知れませんが、そこには天と地ほどの開きがあるのです。その違いを理解し、宗教儀礼を捨てて、心から主への信仰に立つ。そこにこそ、真に神さまの為され方を覚える立ち方があるのではないでしょうか。神さまの為され方とは、イエスさまと人間との間に「交換」があったということです。つまりそれは、罪なき方であったのに罪ある者となられたイエスさまと、罪人だったのに義なる者とされた人間との間に行われた、交換のことです。前回、「和解」ということばは、ヘレニズム世界で用いられていた「交換する」という言葉から派生したと言いましたが、この「交換」が、つまり「和解」なのです。「和解」は、御子イエスさまを十字架に磔けるという神さまの恵みによって実現したことですが、彼らにはそれが理解出来ません。理解出来ないまま、自らの罪を置き去りにして、ただ義と認められたいと願いましたが、それは出来ない相談でした。

 彼らは、神さまが、神殿に祀られた、宗教儀礼によって崇められる神々とは根本的に異なるお方であることを、知らなければなりませんでした。それらの神々は、人間の罪を数えることも、罪ある人間と和解契約する一方の旗頭であることも出来ず、そもそも、それらの神々は、恵みの主として立つことが出来ないのです。コリント教会の人たちは、そんな神々への儀礼的敬虔さではなく、自分たちの罪を赦し、自分たちと和解して下さる、神さまだけを見つめなければなりませんでした。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください」(6:1)とパウロは、そのために働いているのです。そうです。「神さまとの和解」は、神さまの恵みによって与えられるものなのです。神さまを恵みの主であると聞き、その方の前に「自分は罪ある者である」と告白するなら、恵みある主から溢れ出る「和解」を、素直に受け取ることが出来るのではないでしょうか。パウロは、「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2)とイザヤ書49:8の言葉を再度引用し、そのイエスさまの恵み、そのイエスさまによる救いを覚えて欲しいと願っているのです。この救いは、神さまの愛から溢れ出たものなのです。現代の私たちも、「今は恵みの時、今は救いの日です」とあるように、恵み溢れるイエスさまの時代に生きているのですから、「~してはならない」式の律法や宗教儀礼によってではなく、信仰の目を見開いて、変わりなく愛を注ぎ続けて下さる、恵み溢れる主に目を留めようではありませんか。


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