コリント人への手紙Ⅱ


16
和解のことばを
コリント第二 5:14-19
イザヤ書  66:22-23
Ⅰ キリストのうちにあるならば

 「和解」の章、二番目のフレーズをパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(14)と始めました。正気であることも、正気でないことも、神さまのために生きていることも、人々のために生きていることも(13)、全てイエスさまの愛に根ざした生き方でしたが、パウロはそれを、「私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(14-15)と受け止めました。

 「すべての人」とは、キリスト者、特にコリント教会の人たちを指しているのですが、彼らは、キリスト者にふさわしくない自らの行動が、神さまの逆鱗に触れるのではないかと恐れていたようです。であるなら、この「すべての人」は、キリスト者たる現代の私たちにも及んで来るではありませんか。ですからパウロは、テモテやテトスやシラスをも含め、ここを「私たち」と言い換え、「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(16-17)と言ったのです。イエスさまとともに死んだ者は、イエスさまとともに新しくされる。ここには、コリント教会の人たちだけでなく、現代の私たちも含まれるのです。ロマ書5-6章では、さらにこれを踏み込んでいます。

 ロマ書6章のこの箇所を、2017年版新改訳聖書から紹介しましょう。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマをうけたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることになる、と私たちは信じています。」(ロマ6:3-8)


Ⅱ キリストの愛が

 こう見てきますと、私たちがイエスさまとともに死に、イエスさまとともに新しいいのちによみがえるという主張を、これ以上に説明する必要はないでしょう。ただ、それは神さまが定められたことであるとして、パウロが「イエスさまの死といのち」をここで改めて取り上げたのには、理由があるのです。今、パウロは、「神さまとの和解」という主題をもって、ヘレニズム社会に挑戦しようとしています。何故ここで「贖罪」ではなく「和解」なのか、それは追って説明しましょう。

 ここには、18節以下で取り上げられる「和解論」の一部として、いくつかのことが取り上げられていますが、まず、「イエスさまの愛」、「イエスさまの死」、そして「そこに招かれた人間」という三点を見ていきたいと思います。恐らく、コリント教会の人たちの未熟さを考慮してか、パウロはこれらを独立した事象として取り上げてはいません。ここでは極めて簡単な記述になっていますが、ロマ書等の記述を合わせながら、パウロの論点を掘り下げていきたいと思います。

 第一の「イエスさまの愛」は、冒頭でも触れたように、十字架に凝縮されたものとして語られています。しかし、正確に言いますと、愛あっての十字架ですから、私たちは、神さまを突き動かしてイエスさまを十字架に向かわせたものは、罪による滅びから私たちを救い出そうとするイエスさまの「愛」であったと理解し、その愛のうちに歩みたいと告白するのです。ヨハネはその福音書の冒頭で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14)と証言しています。イエスさまの恵みとまことは、御父とともに、元々そのご人格に備わっていたものですが、私たちへの愛の発露として、それが十字架になったのです。バルトの和解論が神さまの愛(恩恵)から始まっているのも、パウロ神学に倣ってのことと思われますが、和解論の最も重要な主題の一つは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」というこの一文ではないでしょうか。

 第二の「イエスさまの死」は、言うまでもなく「十字架の死」ですが、その「死」は、ローマ法に基づく極刑でしたから、罪人としての「死」でもありました。しかしパウロは、罪なきお方(Ⅰペテロ2:22-23参照)が「すべての人のために死なれた」(15)のだと主張してやみません。イザヤ書に「苦難のしもべ」として知られる章がありますが、そこには、「彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」(53:10)とあります。これが神さまの望まれた、私たちへの恩恵としての「和解」なのです。私たちが全く痛まなかったのに、ただ神さま(御父と御子)だけが、私たちのために傷つき痛まれた和解なのです。


Ⅲ 和解のことばを

 和解の神学には、第三の「そこに招かれた人々」も数えられます。その招かれた運命共同体としての私たちにとって、「信仰」こそ、最も重要な核心部分なのです。ロマ6:3-6も「~と私たちは信じている」と閉じられています。この「信仰」は、パウロの和解論の中心的一角を占め、20節には、「神の和解を受け入れなさい」とあります。「受け入れる」は、まさに信仰の核心部分なのです。

 こうした段階を経て、パウロは「神さまとの和解」という中心主題に入ります。今朝のテキストはその前半です。「これらのことはすべて、神から出ているのです。神はキリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです」(18-19)とあります。まず、「神は、私たちをご自分と和解させ」とあるところですが、和解はヘレニズム世界で用いられていた「交換する」から派生した言葉で、敵対する者同士が合意して平和協定を結ぶことですが、同格ではない神さまと人との関係では、それは「キリストによって」(十字架の贖罪)という条件付きで、人との敵対関係をないものにするという、神さまからの一方的恩恵なのです。ヘレニズム社会には、唯一全能の「絶対他者」はいませんから、彼らの神々には、人を愛する意識も能力もありません。それだけに、その神々を人間界に適うように性格づけたヘレニズム世界では、相対的神学とも言える「和解論」が、恩寵を叫ぶユダヤ神学の「贖罪論」より柔軟で対応しやすいと、ヘレニズム世界向けの神学として構築されたもので、これはパウロ文書だけに見られます。ヘレニズム世界に生まれ、再びその世界と向き合ったパウロだからこその、贖罪というユダヤ固有の救済神学を発展させた、新しい概念と言えるでしょう。

 和解に関するもう一つ重要な点は、「和解のことばを私たちにゆだねられた」とあるところです。ここには「キリストにあって(の中に)」という一句が加えられていますが、「和解のことば」とは、イエスさまご自身のことです。イエスさまを「永遠のロゴス」としたのはヨハネですが、その萌芽はすでにパウロの中に見られます。しかも、その「永遠のロゴスによる和解」は、イエスさまの中で構築されたのです。イエスさまが世に来られて十字架に死なれよみがえられたのは、歴史上の事実であって、それはパウロの思考の中で生まれたおとぎ話的神学ではないのです。「神さまとの和解」は、神さまのうちに構築されて溢れ出し、私たちの歴史に刻一刻と刻まれながら、今、終末に向けて完結しつつあります。パウロは、「主キリストを信じなさい」と人々に決断を迫りながら、宣教の務めに励みました。神さまとの和解が成立するのは、「信仰」を経てのことなのです。その信仰は、「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」(イザヤ66:23)とあるように、礼拝において育てられるのです。そんな信仰を、聖日ごとに献げ続けようではありませんか。


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