コリント人への手紙Ⅱ


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主の愛のうちに
コリント第二 5:11-14a
イザヤ書     54:7-8
Ⅰ 主を恐れることを

 パウロの勧めは、「希望の章」から、新しい主題・「神さまとの和解」に移ります。一世を風靡し、今なお現代神学をリードしているカール・バルトの教会教義学・「和解論」(1953年)を持ち出すまでもなく、これは、20-21世紀にかけて、近現代神学の中心主題になっています。もちろん、パウロはここで、神学としての「和解論」を論じているわけではありませんが、今朝のテキストは、ロマ書5:1-11と共に、バルト神学の基礎になっています。この箇所を取り扱うこれから三回の講解説教で、その中心にわずかでも踏み込むことが出来ればと願います。

 パウロは、「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」(11)と始めます。「私たちのこと」とは、当時、パウロの使徒性を拒否する人たちがいたからですが、多くの註解書はここを、その弁明の繰り返しとしています。けれども、コリント教会の人たちは、パウロが書き送った「涙の手紙」と、その手紙を持参したテトスの、数ヶ月に及ぶメッセージを聞いて変わり始めていましたから、それを繰り返す必要はなかったでしょう。むしろパウロは、彼らに、キリスト者としての立ち位置を覚えて欲しいと願っているのです。そして、その思いが、「神さまとの和解」という重要主題につながりました。

 ここには、「神さまとの和解」につながるキイワードとして、「主を恐れる」ということばがあります。これは、先に「希望の章」で、「私たちはみな、キリストのさばきの座の前に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(10)と締め括られたことに対応して言われたことで、使徒として召し出されたパウロでさえ「主の審判」の前に立たなければならないという、来たるべき終末の厳しい場面に対する「おそれ」なのです。ですから、この「主を恐れる」ということばは、新改訳のように「恐れる」という漢字表現が適当なのでしょうが、一方、新共同訳には、「主に対する畏れを知っているわたしたちは……」(11)とあり、「恐れ」なのか「畏れ」なのか、どちらとも言い難いのですが、それは「神さまに対する根本姿勢として、神さまの意志による従属関係を表わす」(新訳聖書釈義事典)ものであり、「おそれ」は「畏れ」が原意であると覚えなくてはならないでしょう。口語訳は「恐れ」ですが、明治訳、大正訳の文語訳と永井訳、キリスト新聞社訳、岩波訳……と、大半の邦訳は「畏れ」を採用しています。さて、新改訳と新共同訳を読み比べて、どちらが適当と思われるでしょうか。


Ⅱ 神さまの審判に

 聖書の言語を邦訳の違いで云々するのはどうかと思いますが、批判を覚悟の上で言いますと、神さまへの「おそれ」は、まず「畏れ」があって、そこから「恐れ」が生じるということなのでしょう。神さまを畏れる目でパウロが見ていたのは、「神さまの審判」でした。聖書にはそれが明言されています。この最終審判には、善人であれ悪人であれ、すべての人が引き出され(5:10参照)、永遠のいのちか永遠の滅びかに振り分けられるのです。それは終末の、神さまの秘儀に属することですが、聖書はそれを不確定で未定なこととはしておらず、それは、すべての人がくぐり抜けなければならない確定事項であるとしています。福音宣教者として召し出されたパウロでさえ、例外ではないのです。ロマ書には、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示され」(1:18口語訳)、「このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔い改めのない心のゆえに、あなたは、神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」(同2:3-5)とあります。パウロは、その神さまの慈愛を見つめていたのです。

 そして、その「最後の審判」を見つめなければならないのは、「あらゆる不信心と不義」に邁進していたコリント教会の人たちでもありました。彼らは、自分の内にある「あらゆる不信心と不義」をごまかさず、「良心」をもって神さまの前に立たなければならなかったのです。私たちの罪を数え上げ、それを告発するのはサタンですが、しかし、イエスさまは、「わたしが彼の罪を背負って十字架に死んだのだ」と、弁護者として、私たちの傍らに立って下さるのです。「あなたがたの良心にも明らかになるように」とあるこの良心は、犯した罪の、しかし、その罪を赦された恩恵の重さを噛み締めながらの、「良心」なのでしょう。パウロがそれをここまで深く踏み込んでいるのは、彼らがキリスト者として変わって来たからではないでしょうか。「あなたがたの良心」という言い方は、それを裏付けてくれるようです。「イエスさまを信じます」という告白は、神さまの前に立った者たちの良心に基づいてなされる告白ですが、その告白が、小さい私たちのような者にとっても、永遠のいのちに至る重い響きを持ているとは、驚きではありませんか。


Ⅲ 主の愛のうちに

 そう聞きますと、「私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです」(12)とあるのも、コリント教会の人たちがキリスト者として堅く立つようにとの、パウロの強い勧めであるとお判り頂けるでしょう。パウロを誇るとは、パウロが語ったイエスさまの福音という恩寵を誇ることで、それは、「うわべのことで誇る」教会に潜り込んでいた偽預言者たち、自称「キリスト教巡回伝道者」たちが、コリント教会ばかりでなく、当時、ローマ・ギリシャ世界の教会に多くいたからで、その人たちに対抗するようにとの、信仰告白の勧めなのでしょう。全体として初期教会は、そうした宗教化、儀礼化の傾向を辿り始めていました。現代の教会も、そのような傾向に向かいつつあるのでは……と、気になります。

 パウロは、そんな傾向にある人たちに、「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(13)と、強烈なことばを投げかけました。「気が狂う」とは、ギリシャ語原典でいうエクスタシスですが、一般的には、「神さまに憑かれた」預言者や、異言を語るときの忘我状態を指していて、新改訳の「気が狂う」は、口語訳の伝統を引き継いだものと思われます。しかしこれは、神さまを知らずにやみくもに熱狂することとは区別されていて、単純に宗教上の熱狂的状態とは言えず、「エクスタシー」とか「気が狂う」と訳すのは適当ではありません(新訳聖書釈義事典)。新共同訳や2017年版新改訳、岩波訳は、「正気でない」と苦肉の訳を採用しています。難しいことを言うようですが、パウロは、私たちが神さまに向かうとき、世間一般の常識である宗教儀礼、ユダヤ人の律法、キリスト者たちの「キリスト教奥義」としての教義的理解等々に囚われない、自由な発想をもって神さまに近づくことが出来ると言っているのでしょう。それが、「正気でない」という言い方になりました。

 ここではもう一つ、「正気であるのはあなたがたのため」とありますが、「正気でない」状態を示す「異言」のことを語る中でパウロは、異言とは正反対のこととして、「知性」を上げています。そこには「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです」(コリント第一14:19)とあり、それは、「すべてのことを徳を高めるために」(同26)と締め括られました。キリスト者の「徳」は、愛あるところで生まれるのです。私たちが生き生きと躍動できるのは、そこにイエスさまの愛があるときなのです。ですからパウロは、「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(14)と続けました。私たちが「正気であるかないか」は、その時々で変わるのですが、しかし、十字架の主の愛は、天地がひっくり返っても変わることはないのです。イザヤ書には、「『怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ』と、あなたを贖う主は仰せられる」(54:8)とあります。 その愛のうちに歩みたいではありませんか。 


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