コリント人への手紙Ⅱ


13
見えないものにこそ
コリント第二 4:16-18
創世記      3:1-7
Ⅰ この世の神に抗して

 今朝は、「希望の章」の、第二フレーズとでも言うべきところです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16)とパウロは、その希望が、御国に迎えられる日を待つまでもなく、この世においても実現すると言っているのです。

 キリスト者たちの教会離れが進んでいると言われる現代、その最大の理由は、「この世の神・サタン」(4)の攻撃が功を奏して……、と考えられます。サタンが支配するところで、イエスさまを信じる信仰が、いつまでも変わることなく維持され続けるなど、あり得ません。誰もが、何回も、「信仰の危機」に見舞われて来たのではないでしょうか。熱心な信仰者ほど、サタンに狙われやすいのです。その意味で、牧師や教師、役員といった人たちが、いつの間にか脱落していると言う現状があります。そのような徴候は、コリント教会にも起こっていました。パウロがコリント教会を去った後、色々な人たちが、色々な「教え」をもって教会に入り込み、コリント教会は、たちまちこの世の神・サタンの餌食になっていったのです。

 「勇気を失わない」の原意は、「悪い(思いの)中に」引き込まれることを拒否するという意味ですが、しかし、「悪いもの」を「悪い」とする基本的信仰が構築されていなければ、拒否のしようもありません。サタンは、「悪いもの」を「悪い」とせず、逆に、「有益なもの」「美味しいもの」「心地良いもの」と思わせることに長けています。パウロは、エペソ教会の長老たちに、「凶暴な狼がはいり込んで来て、群れを荒らし回る」(使徒20:29-30)と警告していますが、狼は、時には「天使」を装って私たちの前に現われるのです。その正体を正確に見抜くために、「悪いもの」を「悪い」と判断出来る、キリスト者の基本的信仰姿勢を学んでおかなくてはなりません。コリント教会が多くの問題を引き起こしたのは、それをチェックするだけのメッセージが語られず、また、それを聞き取る力も出来ていなかったからではないでしょうか。講壇からは、神さまのことばである、「聖書」のメッセージが語られ聞かれなければなりません。みことばに養われているなら、起こり来る多くの問題に苦悩し弱り果てているように見えても、根本的に、「内なる人は日々新たにされている」のですから。そうです。イエスさまの福音に召し出された者は、内面から日々新たにされていくのです。


Ⅱ 恵みと栄光の主に

 この「外なる人」と「内なる人」の対比は、恐らく、グノーシス主義が、プラトンなど、ギリシャ哲学と結びついて生まれた、二元論の宗教思想からと思われます。しかしそこには、創造主にして全知全能の唯一の神さまも、また、私たちを罪から救い出して下さる十字架のイエスさまも、「内なる人」として内在される聖霊も存在していません。その宗教思想を支配しているのは、この世の神・サタンなのです。そんな最新の宗教思想の決定的な問題を、パウロは鋭く見抜いていました。ですからパウロは、イエスさまの福音を信じ受け入れた人は、真の神さまの側に立つ者であり、その人の取るべき道は、唯一、神さまのことばの他にないと言っているのです。何よりも、「みことばに聞く」人は、日々、神さまの守りの中にあることを、感謝のうちに覚えることが出来るのです。この世の神・サタンの攻撃に耐え抜く力は、自分自身の内側から出て来るものではなく、神さまから出て来るものであると覚えなければなりません。パウロは、それを、「霊の人」と受け止めました。神さまが自分の内にいて下さるのだと……。毎日聖書を読み、聖書の意味を聖書から聞く「霊の人」は、そこから生まれて来るのです。そうであるなら、どんなに激しい苦悩の中にあっても、神さまからの慰めや励ましに、解決の道を見いだすことが出来るのではないでしょうか。

 「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(17)とパウロは、コマを進めます。この文章の主語が、「わたしたちの一時の軽い患難」(新共同訳)であるとを覚えたいのです。パウロは、その背後に、神さまがおられることを明らかにしようとしています。ところが人は、自らの生き方の主導権を神さまに明け渡すことには、断固、反対します。そんな人間の内面に巣くう真(まこと)の神さまへの反発は、アダム以来培われて来た、人間本来の思いなのかも知れません。今朝のテキストの背景には、「恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです」(15)という、1節があるのです。神さまの恵みを覚えて、賛美や感謝と共に、神さまのことばに聞く。そこには神さまがおられると、パウロは、多くの苦難に瀕し、死の危険を味わいながら、それらは、やがて頂く「義の栄冠」(Ⅱテモテ4:8)の前の、「一時の軽い患難」に過ぎないと言っているのです。私たちも、襲いかかる強烈な苦難の前で、どう対処していいか分からなくなることがあります。しかし、神さまの栄光の前では、そんな苦難は、たちまち泡のように消えてしまうのです。まるで栄光が忍耐の報酬であるかのように……。NTDの註解者は、「苦しみは栄光をもたらし、死は生命をもたらす」と言っていますが、それは、私たちも身をもって感じていかなければならないことでしょう。


Ⅲ 見えないものにこそ

 これまでパウロは、「外なる人」と「内なる人」と言って、どちらかというと、視点を人の生き方に絞って来ましたが、今度はそれを、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18)と、「見えるもの」と「見えないもの」に変え、神さまを軸とした、神さまのおられる世界と神さまのいない世界を描いています。イエスさまの死を身に帯びている者(10)には、恵み溢れる神さまの栄光の世界があるのだと、それを前面に押し出しているのです。「見えない」世界とは、「あなたはわたしのもの」と言われる、神さまの恵みと栄光に満ちた世界なのです。イエスさまの世界に招かれた者は、そこに目を留めなさいと、パウロは今、コリント教会の人たちに、見えない世界に招かれている幸いを示しているのです。

 けれども、現代社会は、「見えるもの」ばかりに取り囲まれているようです。特に科学が進んだ近年、人体の神秘や宇宙物理の世界など、これまで見えなかったものが見えるようになって、そこではまるで、人間が神にでもなったように錯覚している観があります。「神は人間の脳が造りだしたもの」と言うTV番組がありました。反面、昔ながらの原理主義を振りかざし、教条主義に陥って、信仰を「見える」世界に引きずり出そうとしている人たちもいます。キリスト者らしくしなければいけないと、その人たちは、教会から離れた人たちの痛みを思いやることもなく、「彼らには信仰がない」と、ばっさり切り捨ててしまうのです。正反対でありながら、それもまた、極端な「見えるもの」に囚われた世界ではないでしょうか。そんな誤った信仰が、一部の教会の人たちをサタンの餌食にしているように思われてなりません。

 信仰は見えなければならないと、ある意味でそれは正しいのですが、私たちには、目に見えるものを見たり聞いたり触ったりしながら、それを好ましいと思ってしまうところがあります。そして、それが時には、避けがたい誘惑になってしまうのです。現代社会は、そんな私たちを誘ってやまない誘惑に満ちています。一概にそれら全てが悪いとは言えませんが、サタンは私たちの好むところを良く知っていて、「食べてごらん。美味しいよ」と囁きかけているのです。蛇の勧めた木の実を、アダムとエバが「美味しい」と喜んで食べたように(創世記3:6)、それが神さまの世界から私たちを引き離して「死」に至らせるなど、想像もしないのです。神さまのことばより、「美味しいよ」と耳もとで囁くこの世の神・サタンのことばを聞いてしまう私たちは、それに太刀打ち出来るほど、強くも賢くもありません。私たちの回りには、そんな囁きが満ち満ちているのです。

 だからこそ、この「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めよ」というパウロのことばには、値千金の重みがあります。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」と、信仰者の視点を養わなければなりません。「見えないもの」に目を注ぐなら、一時の苦難にも耐えることが出来、永遠の御国の主を覚えることが出来るのです。そうありたいではありませんか。


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