コリント人への手紙Ⅱ


11
主に仕える者と
コリント第二 4:1-6
イザヤ書   9:1-5
Ⅰ 神のことばを曲げず

 今朝のテキストは、3:4から4:6まで、律法とイエスさまの福音の輝きが語られる三つのフレーズの、最後の部分です。「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」(1-2)とパウロは、変わり始めたコリント教会の人たちに、寄り添うところから始めようとしています。「あわれみを受けて」と、そこには、パウロ自身の、私はキリスト者を迫害した者である……という思いが、滲み出ているようです。いくつもの問題を抱えたコリント教会の人たちと、主の民を迫害してきた自分の問題のどちらが重いかは、比ぶべくもないと……。パウロは、自分の犯した罪を忘れてはいませんでした。主のあわれみに言及したのは、その罪の重さを、深く重く受け止めていたからに他なりません。その罪を赦して下さった主のあわれみを受けて、パウロは、「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず……」と、今、自分の為すべき務めに、忠実であろうとしています。わけても、「神のことばを曲げず、真理を明らかにし」と、パウロは、そのところに立とうとしているのです。そうです。神さまのことばであり真理である、主の福音を明らかにすることは、パウロの、伝道者としての務めでした。ある註解者は、パウロは常に人間に寄り添っていたと見ていますが、むしろパウロは、神さまの思いに立つことを志していたと言えるでしょう。その神さまが、人間に寄り添っていて下さるのです。

 パウロは、「神のことばを曲げず、真理を明らかにする」ことに拘りました。それは、当時の教会に、律法主義やキリスト教グノーシス主義という、異端神学が入り込んでいたからですが、特にコリント教会では、そうした教えがイエスさまの福音を押し退け、人々を魅了していました。2節はいかにも複雑に聞こえますが、第一書や涙の手紙で、彼らの問題点を鋭く指摘されたこともあって、コリント教会の人たちは、この「恥ずべき隠された事」や「悪巧み」の意味を、充分に理解していたのではないでしょうか。彼らは変わり始めていました。彼らは、罪を悔い改めて神さまの道に歩むことでしか、新しい生き方を志すことは出来ないと、覚え始めていたのです。ですから彼らは、この主張の中心部分、「神のことばを曲げず、真理を明らかにする」を、的確に理解したのではないかと思われます。それは、彼らが「神さまのことば」を、心を込めて聞き始めたからではないでしょうか。


Ⅱ この世の神・サタンが

 当時の教会で「神のことば」とは、旧約聖書というよりむしろ、テサロニケ前後書やコリント第一書など、少しずつ出回っていた、パウロ書簡を指していると見ていいでしょう。当時、パウロ書簡が、一番早く読まれていたのです。そこにマタイ、マルコ、ルカの三福音書と使徒行伝、その後、ペテロやヤコブ等の書簡、ヨハネの書簡と黙示録、最後に、一世紀末に書かれたヨハネの福音書が加えられました。それら27巻の「新約聖書」が正典と呼ばれ、キリスト者の規範となっていったことは、使徒後教父たちの「異端反駁の書」やエウセビオスの「教会史」で、明らかにされています。パウロがここで「神のことば」と言っているのは、まだその初期段階ですが、そこには、イエスさまの福音の全容が明らかにされる、新しい契約の書としての「新約聖書」が念頭にあったと見ていいでしょう。「神のことば」として整えられつつあった「新約聖書」は、礼拝の儀式化や律法、宗教思想など哲学に惹かれて、一種の宗教形態に陥りかけていた教会の歩みを押し止め、イエスさまの福音に向かわせる重要な役割を担いました。紀元一世紀半ばのこの時代に、イエスさまの福音を伝えた使徒たちの伝承が、文書という形態を整えつつあり、パウロは、その先端を担っていると自覚していたのです。

 「自分自身をすべての人の良心に推薦している」とこれは、パウロの自己宣伝ではなく、福音の使者として立てられた者のことばには「神の奥義を指し示す務め」があるのだから、それを聞いて欲しいと言っているのです。「真理を明らかにし」とは、そのことを指しています。パウロのことばは、「神のことば」として、人々を救いといのちに導く、神さまの力に溢れていました。「それでもなお私たちの福音におおいがかかっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです」(3)と、この宣言は、神さまのことばに聞かない者は、その「聞かない」ことのために、滅びへの責任を負わなければならないと、キリストに敵対するサタンの攻撃に抗うことなく、サタンの罠に陥って行く人々の様を言っているのでしょう。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」(4)と、パウロは更に、「神のことば」に聞こうとしない者たちには、福音の光が届かず、闇の中でさまようことになると、その事実を、隠そうとはしていません。「この世の神」とは、サタンのことですが、彼は、味方のふりをし、寄り添っていると思わせて、人々を神さまから引き離そうとしているのです。私たち人間にとって、イエスさまの光は、眩しすぎるのでしょうか。光の届かない暗やみを好むなど、まさにそれは、サタンの思い通りではありませんか。現代という時代、そんなサタンの思い通りになる人たちが、急増しているように思われてなりません。


Ⅲ 主に仕える者と

 この世の神・サタンの力が猛威を振るっている中で、パウロは、「『光が、やみの中から輝き出でよ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(6)と言っています。パウロは、希望を見失い、暗やみを歩んでいる人たちに、目を開くなら、輝くイエスさまの光を見ることが出来るではないか、と言っているのです。なぜなら、天地とその全てを創造された神さまは、創造の初めに、「光よ。出でよ」(創世記1:3)と言われ、混沌たる暗やみの中に、明るく照らす光り輝く世界を望まれたからです。イザヤ書に「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った」(9:2)とあります。イエスさまの福音がそれであると、パウロはそう聞いたのです。「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」とパウロは、コリント教会の人たちが重んじていた「知識」を、そこに絡めました。「キリストの御顔にある神の栄光」とは、イエスさまが「神さまのかたち」と呼ばれていたことによりますが、ヘブル書には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」(1:3)とあります。それは、イエスさまの福音という「啓示」を聞いて知る、「知識」に他なりません。福音の栄光の輝きに照らされた者は、どんなものにも優る、深い知識に満たされるのです。凡人に過ぎない私たちも、「神さまのことば」に照らされて、少しずつではあっても、イエスさまの栄光に導かれていくのではないでしょうか。

 ですからパウロは、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」(5)と、本来、最後を飾るはずのこのことばを、6節の前に挿入しました。それは、自分が伝えたものは、いかなる意味においても、自分の知識からではなく、イエスさまから出たものであると、それをはっきりさせたかったからです。「自分の知識」というなら、特にパウロが培って来た知識は、他に抜きん出ていました。その知識は、ガマリエル門下の律法学者として、ギリシャ哲学に通じた者として、他を圧していたのです。コリント教会の人たちは、アテネの賢人たちに憧れ、積極的にグノーシス主義など最先端の宗教思想に走ったほどですから、知性に溢れたパウロのメッセージを、自分たち好みのものとして、妬みをもって聞いていたのではないでしょうか。しかし、パウロの輝きは、イエスさまの栄光であって、外面ではなく、内面から彼を輝かせていました。ですからパウロは、この世の知識に基づく立ち位置を惜しげもなく捨てて、私は「キリストを宣べ伝える」と、宣言したのです。「だから、あなたがたも、私にではなく、イエスさまに聞いて欲しい」、「私は、イエスさまのために、あなたがたに仕えるしもべなのだから」と、パウロは、イエスさまのしもべであることに徹しました。イエスさまを主とする者は、神と人とに仕える者とならざるを得ないのです。私たちも……と、願わされるではありませんか。


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