コリント人への手紙Ⅱ


10
霊の人とされて
コリント第二 3:12-18
エレミヤ書 31:31-34
Ⅰ 大胆に語ったものは

 パウロは、「もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです」(11)と、今なお「律法」に縛られているコリント教会の人たちに、律法を超えて優れた、イエスさまの福音の輝きに気づいて欲しいと願っています。今朝のテキストで、パウロは、「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります」(12)と始めます。「このような望み」とは、パウロがコリント教会の人たちに是非とも覚えて欲しいと願っていた、「イエスさまの栄光」を指しているのでしょう。イエスさまの栄光は、暗黒の中に苦しんでいる人々を神さまの御国に招く大きな希望ですが、パウロはその宣教の任に召されていました。

 「大胆に」とは、伝道者パウロの勇敢な様を指すと思われていますが、そう単純なことではないようです。それはコリント教会の人たちの信仰のあり方に関わっていると思われますので、少々煩雑ですが、その局面を、あぶり出していかなければなりません。

 3:3に、「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」とありますが、ここでパウロは、「私たちの推薦状は、あなた方(コリント教会の人たち)ではないか」と言っているのです。それは、彼らが自分たちを「霊の人」だと思い込んでいたことによります。「霊の人」とは、神さまに結びついている人のことを言うのですが、彼らを「霊の人」と思い込ませていたのは、当時コリント教会に入り込んでいた、ユダヤ人律法主義者たちでした。彼らはモーセを律法の付与者としていて、恐らくそれは、アレクサンドリアでユダヤ人学校を開いていた、あのユダヤ人学者フィロンに由来するのではないかと、「第二コリント書の神学」(前掲書)は推察しています。フィロンは、モーセについて、「彼を見た者たちは畏れと驚きとに満たされた。彼らの目は太陽の光のように彼から照り出すまばゆさに耐え続けることもできなかった」(フィロン「モーセの生涯」)と書いていたようです。

 パウロは、後継者アロンがアレクサンドリア出身で、フィロンの神学を学んでいたと知っていましたから、コリント教会の様々な問題の根底には、フィロンの教えがあるのではないかと考えていたようです。ですからパウロは、コリント教会の人たちが大切にしていた「モーセやフィロンの栄光」に、触れざるを得なかったのです。「大胆に」とは、彼らが大切にしていた領域に踏み込んだことを言っているのでしょう。パウロは、彼らが大切にしていた「人間中心」の価値観に、メスを入れたのです。


Ⅱ 新しい契約によってのみ

 パウロは、「モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはことはしません」(13)と言っています。出エジプト記には、「モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた」(34:33)とありますが、モーセと言えども、その輝きはやがて消えてしまったと、これがパウロの理解のようです。しかし、イスラエルの人々は、モーセの顔の輝きを畏れました。コリント教会の人たちも、それを人間の領域を超えた輝きと受け止めたのでしょうか。それは、原始時代の人々が、森羅万象の雄大さに神々の神秘を感じ、それを畏怖したことを想起させるではありませんか。

 もちろん、人は神さまの輝きの前に立つことは出来ません。しかし、だからと言って、パウロは、その輝きであるイエスさまの福音を、聞く人の思いに忖度し、割り引いて伝えることなどしませんでした。覆いを掛けるとは、そういうことなのです。まして、名士の推薦状を携えて教会に来た自称「キリスト教伝道者」を、その推薦状で評価するなど、論外です。彼らの多くは、ユダヤ教に依存する律法主義者で、もしかしたら、フィロン学派だったのかも知れません。そう聞きますと、コリント教会内の分裂分派の争いも、人間の内部に潜む深い闇から来ていたのではないかと、腑に落ちます。彼らは、自分たちの心に覆いをかけて、律法が彼らに永遠のいのちをもたらすと思い込んでいたのです。それは、イエスさまが私たちの罪のために死んで下さったことを割り引いて、「宗教―様々な儀礼や神学に飾られたキリスト教―に立つ」ことを、イエスさまを信じる信仰と勘違いさせました。そうした「宗教」は、人間社会が培って来たものに他なりません。パウロは、「イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいがかけられたままで、取りのけられてはいません。……かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(14-15)と言っています。

 そこには、「なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです」(14)という挿入句があります。この挿入句は、古い契約は新しい契約によってのみ理解されるという、パウロの意識なのでしょう。「古い契約」とは、恐らくパウロの造語ですが、エレミヤ書には、「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない」(31:31-32)とあります。預言者の意識は、すでに新しい時代を見据えていたのです。


Ⅲ 霊の人とされて

 パウロは、古い契約を、「キリストによって取り除かれるものである」と言いましたが、私たちは今、それを、「取り除かれている」と、継続のニュアンスを持つ現在完了形で聞くのです。ロマ書には、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められる」(10:4)とあります。イエスさまは十字架にかかって私たちの罪のために死んで下さったと、それがパウロ神学の中心主題でした。

 けれどもパウロは、そこには未来もあるのだと、独立文として、「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(16)と、その未来指向の意識を、より明確に、丁寧にこの一文に加えました。「人が主に向くなら」と、これはパウロのコリント教会の人たちに対する希望ですが、彼らがどんなに古い契約や異なる福音に固執していても、パウロは、彼らが新しい契約に招き入れられるという希望を、捨ててはいないのです。「主に向く」とは、言うまでもなく、「罪を悔い改めて救い主イエスさまを信じる」ことですが、そのように、彼らコリント教会の人たちは、その心に掛かっていた覆いを取り除かれて、本当の意味で「霊の人」として認証されると言っているのです。そのとき彼らは、モーセの輝きを、真に正しく認識することが出来るのではないでしょうか。

 パウロは、「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(17-18)と、このフレーズを閉じました。「自由」に言及したのは、コリント教会の人たちが、グノーシス主義に惹かれ、それに囚われていたからでしょう。それは、自由主義を表明しながら、宗教とギリシャ哲学を結びつけ、高度な宗教思想を打ち建てようとしていましたが、彼らは実は、「自由」を豪語しながら、放縦へと突っ走っていたのです。それは罪に囚われた者の姿であって、本物の自由でないことは、パウロの目に明らかでした。本物の自由は、イエスさまに罪を赦された者にだけあるのです。

 パウロは、御霊とイエスさまを同じとしています。その混同は、「キリスト教神秘主義」と言われ、イエスさまの神性を否定する一種の異端とされて来ましたが、しかし、恐らくそれは、ヨハネが提題した、「御霊のお働きはイエスさまの現在化である」ということなのでしょう(ヨハネ14:26、拙著「ヨハネ福音書講解説教集下」66参照)。覚えて頂きたいのですが、イエスさまの救いに与った者だけが、内在される御霊に動かされて、イエスさまを主と告白することが出来るのです。御霊によるイエスさまの現在化とは、その告白なのです。その告白から生まれる礼拝が私たちを、「私たちの顔の覆いを吹き払い、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変え」て行くのです。希望の日が近づいている今、私たちの為すべきことは、一回一回の礼拝に、魂を込めることではないでしょうか。


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