コリント人への手紙Ⅱ



主の恵みに立つ
コリント第二 1:1-2
イザヤ書 55:6-13
Ⅰ 密度の高い、濃厚な時間

 コリント第二書に入ります。これは、紀元56年の春、マケドニヤのピリピまたはテサロニケで書かれたものです。第一書が書かれて7-8ヶ月経っていますが、それは密度の高い、濃厚な時間でした。

 その間、何があったのでしょうか。まず、牧者として送り出されたテモテが、コリント教会の牧会に白旗を上げて、わずか二~三ヶ月?で帰って来たことです。テモテは、三人の使節団(Ⅰコリント16:17)が持ち帰ったパウロの手紙(コリント第一書)がコリント教会で読まれたとき、会衆の面前で恥をかかされプライドを傷つけられたと怒る人たちの様子を、目の当たりにしたのでしょう。その報告を聞いてパウロは、すぐにエーゲ海を渡ってコリントに行きました。これが13:2にある二回目のコリント訪問です。しかしその時、コリント教会の人たちからは歓迎されず、冷たい仕打ちを受けて、とんぼ返りのようにコリントを離れています。少し冷却期間をおけば状況は改善されるだろうと、コリントに戻るつもりで一旦はマケドニヤに行くのですが、途中で思い直し、エペソに帰って来ました。そして、テトスに託したのが、「涙の手紙」と言われる、失われた第三の手紙です。それは第二書にも組み入れられて一部散見出来ますが、そこにはこうあります。「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした」(2:4) これは、当代一と謳われた、アレクサンドリアのユダヤ教学者フィロンの影響下にあったと思われるコリント教会の人たち(アポロ派?)の状況を再認識し、恐らく、エペソにいたアポロの助けを借りて書き上げたものでしょう。

 不本意な時間が過ぎて行く中で、エペソでは、アルテミス神殿の模型(奉納品)を参詣人たちに売っていた銀細工人たちによる、「反パウロ」騒動が起こります。この騒動でいのちの危険を覚えたのでしょうか、心ならずもパウロはエペソを去ってトロアスに向かい、そこで、コリントから戻って来るテトスを待っていました。パウロは、その後のコリント教会について、テトスから良い報せを待っていたのです。けれども、テトスはなかなか戻って来ません。その間、パウロはトロアスの人たちに福音を伝え、トロアスにも「家の教会」(使徒20:7-12)が出来ていたようです。コリント第二2章には、「私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人たちに別れを告げてマケドニヤへ向かいました」(13)とあります。


Ⅱ 神さまの導きのもとで

 パウロがマケドニヤに渡ったのは、紀元56年の春だったようです。パウロは、コリント訪問に際して、初めに、まずコリントに行き、そこからマケドニヤの諸教会を巡回した後、またコリントに戻るという計画を立てていましたが(コリント第二1:15-16)、戻って来たテモテの報告を聞いてか、計画を練り直しました。それは、五旬節を過ぎてからエペソを発ってマケドニヤに行き、そこからコリントにというものでした(コリント第一16:5-8)。その練り直した計画が、三回目のコリント訪問として動き出します。第二書には、「私の計画は人間的な計画であって、私にとっては『しかり、しかり。』は同時に、『否、否。』なのでしょうか。しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、『しかり。』と言って、同時に『否。』と言うようなものではありません。私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり。』と同時に『否。』であるような方ではありません。この方には『しかり。』だけがあるのです」(1:17-19)とあります。日本語では少々分かりづらいのですが、ギリシャ語原文からは単純に、神さまへの信頼だけが伝わって来ます。パウロは、このコリント行きを、自分の生き方を「しかり」と肯定して下さる神さまの導きであった、と確信しているようです。

 マケドニヤに戻ったテトスは、パウロに喜びの報せをもたらしました。7章には、「気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました」(6-7)と、パウロの喜びが語られています。コリント教会の人たちの状況が、好転し始めていました。テトスの懸命な働きが、実を結び始めていたのです。テトスは、ギリシャ人で、第一回伝道旅行から、パウロと行動を共にした同労者です。伝説では、クレテ島の教会で監督を務め、94歳で亡くなったとあります。

 そのテトスが、書き上げられたコリント第二書を携え、別の兄弟と共に(8:18)マケドニヤを出発したのは、恐らく、56年の五旬節を過ぎてからのことです。


Ⅲ 主の恵みに立つ

 パウロの回りには、何人もの若い伝道者たちが育っていました。テトスもそうですし、テモテもその一人です。ところが、コリント教会で起こっていた様々な問題は、彼らを振り回し、混乱させ、熟練した先輩伝道者パウロさえも気落ちさせ、弱らせるものでした。しかしそこには、いつも、彼らの主であり、神さまであるイエスさまがおられたと、これがパウロのメッセージなのです。今朝のテキスト1:1-2からも、この手紙の受取人であるコリント教会の人たちへの慰めと励ましが、たっぷりと聞こえて来るではありませんか。

 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ」(1)とあります。テモテの名がここに挙げられているのは、彼がパウロの口述を書き留めた、この手紙の共同執筆者だったからでしょう。「神のみこころによる」とあるこの形容詞は、パウロにだけでなく、若い伝道者たちにもかかっているのです。みこころ(セレーマトス)は「意志」を意味しますが、そこに「神さまの」がつきますと、それは、神さまが立案されたことは必ず実現するという、パウロの信仰そのものです。その信仰こそ、この手紙の受取人であるコリント教会の人たち、また現代の私たちが受け止めるべき、キリスト者たる者の財産ではないでしょうか。

 「アカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ」とあります。コリント教会を中心にとパウロが願った伝道戦略が、アカヤ州に展開されていたようです。港湾都市ケンクレアにも、小さな群れが誕生していました。様々な問題を抱えたコリント教会ではありますが、アカヤ州の中心教会として、なくてはならぬ存在になっていたようです。パウロたちは、そんな彼らが正しくイエスさまを信じる信仰に立ち続けて行くようにと、ひたすら願っていたのでしょう。けれども、信仰に立とうとすればするほど、主に逆らう者・サタンの介入が激しくなって来るのは避けられません。その意味でパウロは、コリント教会に、強力なサタンの力に打ち勝つ信仰を育てて欲しいと願っているのです。コリント教会に起こっている問題をただ解決したいと思っていたのではなく、それ以上の成長を願っているのです。

 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたに上にありますように」(2)とこの挨拶の定型文は、そんなコリント教会にとって、特別な意味が込められていると聞こえて来ます。アルテミス神殿を巡る騒動の中で、いのちの危険さえ覚えたパウロを、主は救い出して下さいました。その恵みと平安は、必ずコリント教会の人たちにも注がれると、これは、パウロの魂を込めた祝福なのです。コリント第一書講解説教の終わり近くで引用した(63回)イザヤ書には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(55:6)とあります。それは、コリント教会の人たちだけではなく、私たちへの勧めでもありましょう。主の恵みに立つと、覚えたいではありませんか。


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