コリント人への手紙Ⅰ


19
心を尽くして主を
コリント第一 6:12-20
イザヤ書    61:1-3
Ⅰ 不品行は本能のために

 「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」(12)とパウロは、燻り続ける「不品行」の問題に決着をつける前に、コリント教会の人たちが繰り返し主張していたことを、自分に当てはめて取り上げました。ここに二回も繰り返されている「すべてのことが私には許されている」は、恐らく、コリント教会の人たちが標語のように唱えていたものであろうと、NTDの註解者は想像していますが、あり得ることでしょう。けれどもパウロは、彼らのその標語を否定し、「許されてはいるが、すべてが益になるわけではなく、私はそのことに支配されない」と宣言しているのです。確かに自由はキリスト者の特権であるが、罪の赦しに与ったあなたたちにとってそれは有益かと、問いかけたのです。むしろ、自由に支配され、不自由になっているではないかと……。

 「不品行の問題に決着をつける」と言いましたが、これはある意味、多くの問題に進展する「罪」の根幹を為すもので、そう簡単ではありません。ですからこれが六章以降にも尾を引いているのですが、それでもパウロは、不毛な議論が続くことを望まず、六章で一つの決着をつけたいと願っているようです。このフレーズでパウロは、「不品行」という問題を、キリスト教会が最初から抱えていた、より根本的な問題として提議しています。不品行は、それほどの問題でした。異邦人の使徒パウロがアンテオケ教会で働き始めた頃、異邦人信徒をどう受け入れるかが問題になり、エルサレム教会で教会会議が開かれましたが、議論沸騰の末、次のような決定がアンテオケ教会に通知されました。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。」(使徒15:28-29) 「不品行」は、人間の欲望の中でもずばぬけて強烈なもので、ですから、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物」という旧約的戒律とともに並べられ、「高慢」にも匹敵する(バルト)基本的罪過に数えられたのでしょう。

 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます」(13)とあります。生きるために「食べる」という在り方、恐らくそれは、「不品行は本能のため、本能は不品行のため」とも言い換えられ、コリント教会の言い訳になっていたと考えられています。


Ⅱ 神さまとの連帯の中で

 パウロは、「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです」(13)と続けます。ここでパウロは、肉体(サルクス)ではなく、からだ(ソーマ)ということばを用いていますが、それは恐らく、猛烈な勢いでローマ・ギリシャの世界に浸透していた宗教思想、グノーシス主義的異端を意識してのことと思われます。グノーシス主義は、肉体は滅ぶべき物質であって「悪」であると教えますが、それは肉体を纏う人間の、避けることの出来ないものでした。ですから、コリント教会の人たちは、不品行を、律法からの自由ということもあって、本能の赴くままに「やむを得ないこと」と是認していたのでしょう。ところがパウロは、その肉体を、「食物は腹のため、腹は食物のため。神はその双方を滅ぼされる」と切り捨てます。パウロが聞いて欲しいのは、「からだ」(ソーマ)のことであって、それは、「神さまに対応する人格としての人間」(小畑進「コリント人への手紙第一提唱」)を指し、やがて主の御国に招かれ、永遠に主とともに憩うと、議論を展開していきます。「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」(14)、「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです」(15:42-44)と。「からだは主のため、主はからだのため」と、この難解なことばは、神さまとの連帯の中で語られ、イエスさまの共同体やコミュニケーションの媒体(岩波訳欄外註)である「からだ」として、パウロ神学の中核を担っている(「からだの神学」J.A.T.ロビンソン)、と言われています。やがて私たちは、新しい霊のからだによみがえり、主とともに住まうのです。

 「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです」(15-16、18)と、パウロの鋭い論法は、コリント教会の人たちを突き刺しました。「不品行」はもはや、インセストゥム(近親相姦罪)を離れて、人間のむき出しになった欲望にまで広げられています。現代の私たちも、聞かなければならないことでしょう。


Ⅲ 心を尽くして主を

 「不品行」に対するパウロの結論は、「しかし、主と交われば、一つ霊となるのです」(17)というものです。
 これを「不品行を避けなさい」と勧める18節の前の、「人間のむき出しになった欲望」を語るフレーズに潜り込ませたのは、この結論を強調する、パウロの修辞法でした。しかも、これを単純に「主と一つになる」としないで、わざわざ「主と交われば、一つ霊となる」と言ったのは、「遊女と交われば、一つからだになる」(16)に並べ、そこに更に深い意味を込めたのです。もともと「交わる」は、「堅く結びつける」「密着させる」という強い結合を意味することばですが、16節で言われている「ふたりの者は一心同体となる」は、創世記の「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2:24)に由来し、遊女に密着するのが肉においてであるのに対し、主に密着するするのは霊においてである、としていることに注目しなければなりません。「霊」とは私たちに内在する聖霊のことで、そのお方は、イエスさまの出来事を現在化すると聞いて来ました。そのお方が、私たちを、イエスさまに結びつけて下さるです。「遊女と交わる」「主と交わる」とこの二つは、互いに排除するもので、一方は他方を断固退けるのです。私たちを巡って、遊女が主を、主が遊女を退け、さらに不品行という欲望が信仰を、信仰がその欲望を退けるのだと、まさにこれは肉と霊の戦いであり、これこそパウロの宣言である、と聞かなければなりません。「私たちを巡って」この戦いを挑まれる主は、私たちを、心から惜しんでいて下さるのです。

 ですからパウロは、こうつけ加えました。
 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(19-20)

 「主は―私たちの―からだのため」(13)とあるところですが、先にロビンソンの「からだの神学」から、これは「神さまとの連帯の中で語られ、イエスさまの共同体やコミュニケーションの媒体としてのからだ―私たち自身―のことを言っている」と触れましたが、「霊においてイエスさまと一つとなる」のは、宗教的な神秘体験ではなく、私たちがイエスさまを「わが主、わが神」と告白して入れられる、教会の交わりにおいて具体化されるのです。そこで大切なのは、「イエスさまが愛して下さったように、互いに愛し合う」(ヨハネ福音書13:34)ことであると……。十字架の主を頭とする教会は、愛に支配され、聖霊がそれを保証することで、罪に支配されることはなく、そこから解放された者として歩むことが出来るのです。「頭の飾り、喜びの油、賛美の外套を着けて―行われる礼拝の故に―、彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう」(イザヤ61:3)とあります。主に召された新しい愛の心をもって、主を崇め、心からの賛美と祈りと感謝を献げ、主のみことばに聞こうではありませんか。そのような礼拝こそ、イエスさまに愛されイエスさまを愛するイエスさまの共同体、教会の守り続ける最高の交わりなのですから。


Home