コリント人への手紙Ⅰ


18
赦しと愛に招かれて
コリント第一 6:1-11
イザヤ書 53:10-12
Ⅰ 世界をさばく者と

 「あなた方の中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか」(1)とパウロは、前のフレーズ(5:9-13)に続いて、不品行等の「悪事」への訴訟を巡り、教会とこの世の関わりを問題にしました。1節最後の部分は、「正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするです」(新共同訳)と聞いたほうが分かりやすいでしょう。この「正しくない人々」とは、ローマ法をもって社会の規範とする、「この世」を指しています。コリント教会の人たちは、教会戒規より、ローマ法を重んじていました。その原因の一つは、当時の教会が、まだ小さな「家の教会」だったからでしょう。小さな教会ということが、そこに属する人たちの中に、教会を軽んじる思いを潜ませてしまったのです。もっとも、コリント教会は、自前の会堂をという話が出るほど、所属する人数も多くなっていたのですが、彼らが「まともな宗教」と認めるウェスタ神殿などに比べると、いかにも小さいのです。現存するいくつかの最古の教会堂を見ますと、そのほとんどが四世紀以降のビザンティン時代に建てられたものですが、いづれも豪華な造りになっていて、そこには、教会は神々の神殿を凌駕するものでなけれならないと、そんな意識が透けて見えるようです。コリント教会の意識も、そんなことろにあったのでしょうか。

 しかし、パウロの意識は違っていました。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」(2-4) 「聖徒たちが世界をさばく、……御使いをも」とは、聖徒たちが、終わりの日に、審判者として、神さまの審問に加わるのだという、パウロの終末観によるのでしょう。それはダニエル書等を踏襲した、ユダヤ教を起源とする意識でした。もっとも、パウロの終末観には、イエスさまの統治が中心になっているのですが……。ですから、コリント教会の指導者であったユダヤ人たちも、そのように教えていた筈ですが、いつの間にか彼らは、そんなユダヤ教の「神さまの世界」という伝統を忘れ、ローマ法の世界にたっぷりと首まで漬かっていたのです。神さまと共に「世界を裁く」ことを忘れてしまった彼らコリント教会の人たちは、「善悪の判断基準」さえ失って、「ごく小さな事件さえもさばく力」を持たないのかとまで言われてしまうのです。パウロは、そんな人たちに、何度も「……知らないのか?」「……ないのか?」と、問いかけました。


Ⅱ だれの面前で

 コリント教会の人たちへのパウロの糾弾は、「私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです」(5)と、クライマックスを迎えます。この強烈な言い方は、新約文書中、この書簡で三回用いられているだけですが(4:14、6:5、15:34)、4:14で「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではない」と言っていたのに、ここに来てそれが、「はずかしめるために」と、激しい糾弾に変わっています。今、世界中に次々と建てられようとしているキリスト教会のパイオニアとしてトップを走っているコリント教会は、範たる教会とならなければならないのに、その自覚は皆無、しかも、イエスさまの教会たろうとする志さえないではないかと、ここに、パウロの悔しい思いがにじみ出ているようです。

 パウロは、彼らをだれの面前ではずかしめようとしているのでしょうか。一つは、彼らがその生き方の範としていた「この世」の面前で、なのでしょう。彼らは、ギリシャ社会の知恵をもって立とうとしていました。しかしパウロは、そんな在り方はこの世から無視され嘲られるだけだ、と言うのです。なぜなら、この世は、教会を自分たち以上のレベルにあると見ていたのに、実態はそうではなかったからです。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか」(5-6)と指摘された彼らの問題点を、この世は冷静に見ていました。恐らく、現代も同じでしょう。私たちもこの世の人たちから、注目されていると知らなければなりません。

 もう一つのことですが、彼らは何よりも、イエスさまの前ではずかしめられるのだと、そんなパウロの思いが伝わって来ます。ある人が「自ら背負うキリストの御名に対して恥ずべき彼ら」と言っていますが、しかり、彼らを見ておられるのは、他の誰でもない、主ご自身なのです。なぜなら、彼らを教会に招かれたのはイエスさまであり、彼らのために十字架に掛けられたのもイエスさまなのですから。それは、現代の私たちも、肝に銘じておかなければならないことでしょう。私たちは、イエスさまの前で、イエスさまに喜んで頂こうと、キリスト者としての歩みを続けているのです。その視点を失ってはなりません。私たちは、「信仰は自分一個人のこと」と思っているところがありますが、そうではありません。私たちのイエスさまを信じる信仰は、世界中の聖徒たちと共有するものであり、何よりも、私たちをそこに招かれたイエスさまご自身が、見ておられるのです。


Ⅲ 赦しと愛の世界に招かれて

 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る。しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(7-10)と、パウロはここに、キリスト者の基本的倫理観を盛り込みました。それはマタイも「山上の垂訓」で取り上げていたことですが、最初期のイエスさまの弟子たちには、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(マタイ5:38-39)という、共通の倫理観がありました。彼らは、律法を基調とする旧約聖書の世界「絶対正義」には立たず、むしろ、イエスさまの教えである、「赦し」と「愛」を信仰の基調としたのです。ところがコリント教会の人たちは、革新的ユダヤ教指導者のもとで絶対正義を模した「相対的正義」を学び、しかも、そこからも自由にされたと、開放的自由主義神学に走ってしまいました。「赦し」と「愛」の信仰を見失い、放縦の神学を手に入れた彼らが、「互いに訴え合う」混乱に陥ったのは、当然のことではなかったでしょうか。

 ここに列挙された「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者……」は、パウロの誇張ではなく、実際にコリント教会内に見られた事柄であって、もはや彼らは、その指針としていたローマ法に照らしながらも、これが「違反である」とは、認識出来なくなっていました。自分に課した「相対的正義」でさえ、彼らの自己主張の前で、もろくも崩れ去っていました。そんな彼らに、パウロは言います。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(11)と。彼らは、イエスさまの「赦し」と「愛」という最高の席に招かれたのに、それに応えようとはしませんでした。彼らが目指すべき倫理は、彼らが追い求めていた絶対正義や相対的正義、グノーシス主義的知恵から生まれるものではなく、彼らを招いて下さったイエスさまに聞き、信じるところから生まれるのです。それは、旧約聖書の世界にいながら、律法とは違う世界を描き出した預言者たち、特にイザヤの信仰にも見られるものです。「主のしもべは、多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(イザヤ53:12)と。私たちもそのお方・十字架の主に聞きたいではありませんか。主は私たちを、「赦し」と「愛」の世界に招いて下さったのですから。


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