コリント人への手紙Ⅰ


17
なるところに立って
コリント第一 5:9-13
 ヨシュア記 5:10-15
Ⅰ 教会の責務は

 コリント教会で起こった一部の人たちの、不品行に関するパウロの警告が続きます。
 「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。」(1)
 少し本題からはずれますが、「前にあなたがたに送った手紙」とあるところを見ておきたいと思います。原文では「私は(定冠詞)手紙であなたがたに書いた」となっていて、「前に」ということばが入っていませんので、これは今執筆中のこの第一書にも該当するのですが、7:1に「あなたがたからの手紙」と、コリント教会の人たちとは何度も手紙のやりとりのあったことが窺われますので、疑問視する人たちもありますが、失われた何通もの手紙があって、それを指すと受け止めていいでしょう。ただし、その場合、一つの問題―失われた手紙があったとするなら、現存の「正典」には足りない部分があって、もはや、福音主義教会が主張する「完全」とか「十全」とは言えないのではないかという、新約聖書正典「無謬説」―が浮上して来ます。これは私たちの信仰の根幹に関わる問題ですので、お答えしておかなければなりません。新約聖書に収録されている27巻の文書は、少しの足りないところもないように、補完しあっているのです。とは言っても、各文書は年代も執筆場所も違っていて、記者たちが別の人の書いた文書を想定出来たわけではありませんが、それでも互いに補完しあっているのは、これらの文書が、神さまによってコーディネイトされていたからなのです。きっと、失われた文書もそこに織り込まれていて、その意味で、失われた文書があったとしても、聖書正典は無謬な神さまのことばである、と言えましょう。「誤謬」は、人間側のことなのです。

 さて、不品行を咎めた本題に入りますが、「交際しないように」と、これがこのフレーズの中心主題です。先の手紙では、完全な実行は不可能という誤解が生じ、問題は解決しなかったのでしょう。ですからパウロは、「交際しないように」と、もう一度この問題を取り上げました。以前、ヨハネの福音書で「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった」(4:9)を見たとき、そこで用いられた「交際する」は、「同じ品物を共同で使う」という意味であると学びました。しかし、パウロがここで用いている「交際する」は、それよりも強烈な意味を持ち、「一緒に食事をする」とか「関わりを持つ」というニュアンスがあります。特に「一緒に食事をする」という「交際」は、教会では聖餐式を想定していますので、「交際するな」とこれは、「聖餐停止」を意味したのでしょうか。それは教会戒規であり、前回、コリント教会は、それを執行したであろうと触れました。


Ⅱ より高みを目指して

 パウロは続けてこう言います。「それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう」(10) パウロはこれを、初期教会が抱えた問題としています。もし、教会で起こった不品行が世間の人たちに問題視されるなら、それはローマ法のインセストゥム違反として、ローマ法で裁かれることになります。その場合、教会の処置が、世間の人たちに信頼されていないことが明らかになり、それは、教会の倫理基準や秩序がこの世のレベル以下であると、認定されることに他なりません。その意味で、教会は、レベルの高い倫理観を構築する必要があり、起こった問題をどう扱うかについては、一層厳しく判断しなければならなかったのです。実際、現代でも、世間の人たちは教会を、あらゆる面で自分たちとは違った、非常に高いレベルにある、と見ているようです。それは、教会初期から、ペテロやパウロを初めとするイエスさまの弟子たちが、この世の模範となるようにと、高い意識をもって教会を建て上げ、続く先輩たちも、そうありたいとひたすら願って来たからではないでしょうか。私たちは、そんな教会の伝統を、受け継いでいるのです。それはもはや、コリント教会だけの問題ではなく、後に世界中に広がる教会の、イエスさまご自身に関わる問題なのです。ですからパウロは、問題を教会内に留め、ユダヤ教やローマ法より遥かに高いレベルを目指したのでしょう。

 「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけないということです。」(11) 「つきあってはいけない」、「いっしょに食事をしてもいけない」と繰り返されていますが、教会で行う食事は、たいていの場合、聖餐式を意味する「主の食事―聖餐式と愛餐会―」を指していましたから、これは「聖餐停止」と受け止めるのが妥当でしょう。「主の食事」は、最後の晩餐の席で、イエスさまが十字架に掛かることの意味を、弟子たちに教えられたところから来ています。その最古の記事がこのコリント第一書に収められているのですが、そこには、「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」(11:27)とあります。

 パウロは、後々までも教会の立つべき、信仰の姿勢を明らかにしようと願ったのでしょうか。パウロとコリント教会の人たちが見ていた「教会内と教会外」の景色は、違っていたようです。


Ⅲ 聖なるところに立って

 成立して日の浅いコリント教会は、自分たちがこの世から区別された者であると理解することが出来ず、市民権を持つ神殿宗教と教会を、混同していたようです。彼らの「不品行な者たちとの交際を完全に断ち切ることは不可能」という誤解も、そこから生じたと思われます。そもそも、教会がこの世との関わりを断ち切る―後に山の上に修道院を建てた例もありますが―、そんな信仰の純粋培養のようなことは、ほとんど不可能でしょう。教会がこの世でどう立たなければならないのか、パウロはその思いをこのフレーズに込めて、こう締め括りました。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(12-13) もしこの世の人たちが、一切を仕切っておられる神さまを認めたなら、その倫理観は、どんなに厳しいものになっていたことでしょう。まして、コリント教会の人たちは、教会は、その神さまによってこそ、教会らしく歩むことが出来るのだと、肝に銘じなければならなかったのです。「キリスト教会」は、「教える会」ではなく、「エクレシア」、つまり、「エク+カレオー(呼び出された者の群れ)」なのです。コリント教会の人たちが、自分たちは神さまによってこの世から呼び出された者であるとしっかりと自覚したなら、「教会内と教会外」の景色を、パウロと共有することが出来たのではないでしょうか。ところが彼らは、その神さま、十字架で自分たちの罪を贖われたイエスさまを、認めることが出来なかったのです。

 教会とこの世との境界線が薄れていると指摘されています。「ほとんど見えなくなっている」とさえ言われています(NTD)。この世が教会に近づいているのなら嬉しいのですが、そうではなく、教会がこの世に近づいているのです。コリント教会の有り様は、もはや世間一般と変わらなく、信仰もそのレベルになっていたのです。それが彼らの問題でした。現代の私たちも、同じでしょう。ヨハネは、「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いを描きましたが(参考・拙著「ヨハネ講解説教」69、70他)、パウロも、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。……」(エペソ6:11-17)と、これは信仰の戦いであると受け止めています。不品行を咎めて聖餐停止にする、それは、教会とこの世との価値観の戦いである、と聞かなければなりません。イエスさまの共同体に招かれた者は、「古いパン種」を除き、心を一つにして、その戦いを戦い抜くのです。何よりもまず、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(ヨシュア記5:15)と指摘されたことを、覚えたいのです。教会は聖なる所なのです。その聖なる所に立って、私たちが抱えるこの世の問題に、勝利しようではありませんか。そのとき、私たちの信仰の立ち様を見ておられる主ご自身が、司令官として、この戦いに加わってくださるのです。


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