コリント人への手紙Ⅰ


16
純粋で真実な礼拝を
コリント第一  5:6-8
出エジプト 12:1-14
Ⅰ 過越祭の食事風景が

 パウロは、コリント教会で起こっている不品行(ローマ法のインセストゥム)という問題を、たまたま起こった一過性の事件としたい人たちの意見を退け、それは彼らの信仰の、根本的な問題であると指摘します。そこで用いたのが、「パン種と過越しの祭り」に関するたとえでした。

 「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉のかたまりの全体をふくらませることを知らないのですか」(6)とこれは、パンを主食とするローマ・ギリシャ世界で、古代から馴染みある風景でした。イーストなどない時代に、小麦粉を練って、その一部を発酵させてパン種として用い、それが古くなったら捨てるという作業の繰り返しです。発酵は腐敗の一歩手前の状態ですから、本質的には、腐敗と同じなのです。ですから、神殿に献げられるパンは種なしパンで、祭司たちが食べるパンもパン種の入っていないものでなければなりませんでした。また、過越しの祭りなど、神さまへの祭りを行なうときに食べるパンは、種なしパンと定められていました。聖なるお方の前では、腐敗を引き起こすものは、排除されていたのです。パウロは、ユダヤ教の本質にまで踏み込んだその辺りの事情を、良く知っていたのでしょう。

 ユダヤ人がパン種を入れないパンを食べる過越しの祭りのことを、コリント教会の人たちもよく知っていました。もちろん、教会でそれが行われたということではありませんが、教会の指導的立場にあるユダヤ人たちを中心に、恐らく、有志の人たちが集まって、過越しの食事が持たれていたのでしょう。そこには神殿もなく祭司もいませんから、羊を屠ってそれを食べるなどはなかったと思われますが、夜、一緒に集まって食卓を囲み、聖書を読み、賛美をしながら、ハソレトと呼ばれるスープと種なしパンを食べ、また、長老が過越しの祭りの由来を語るといった、ユダヤ人の伝統が守られていたのではないかと想像します。それだけでもう、過越しの祭りを祝う、立派な「宗教儀礼」なのです。そんな事情を知っていたパウロは、パン種の入らないパンと過越しの祭りをたとえに用い、「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです」(7)と、彼らの問題の本質にまで踏み込みました。


Ⅱ 聖なる民と

 「あなたがたはパン種のないものだからです」と、これが問題の中心点です。ユダヤ人の伝統によれば、これは、「あなたがたは聖なる民である」という宣言です。この宣言は、「私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられた」とするところから生まれたものですが、言うまでもなくこれは、イエスさまの十字架を指しています。イエスさまの十字架に罪を贖われた者は、すでに「聖なる者」と呼ばれているのです。それは、パウロの時代から現代まで変わることなく宣べ伝えられて来た、イエスさまの福音であって、コリント教会の人たちは、そのことを繰り返し聞いて来ました。パウロもアポロも、そして、新たに遣わされたテモテも、イエスさま福音の中心主題として、そのことを語り続けて来たのです。ところがそれは、コリント教会の人たちの、魂の奥底にまでは届いて行かなかったようです。彼らの問題の中心点は、そこにありました。彼らは、「神さまの聖なる民」へと招かれながら、応えて行かなかったのです。ですからパウロは、「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい」と言いました。イエスさまの十字架に罪を赦された者は、「新しい粉のかたまり―イエスさまの共同体・教会―」に入れられたのです。彼らは、自分一人の知恵や判断でそこに立っている―それは革新的自由主義神学と言える―と思っていたようですが、そうではありません。彼らは、エペソ教会も含め、彼らのことを聞いた各地の教会の人たちの祈りによって、同じ群れに立たされていると、知らなければなりませんでした。この書簡を書き送ったパウロも、彼を送り出したアンテオケ教会の祈りに支えられていました。現代の私たちも、多くの聖徒たちの祈りによって立たされていることを、忘れてはならないでしょう。

 それは、ユダヤ人たちが、神さまの選びの民とされていたのに、選民としての務めを放棄し、「自分たちは異邦人とは違う」と、誇るだけの歩みに堕していたことにも通じます。神さまがイスラエルをご自分の選びの民とされたのは、神さまを知らない異邦人に神さまのことを知らせ、彼らを神さまに取り成す、「祭司の民」とするためでした。「為すべきことを放棄した」とは、その聖なる務めを忘れてしまったということなのです。ドイツの旧約学者フリーゼンが、「彼ら、しもべとして神さまに奉仕するために選ばれた者は、同時に、世界に救いをもたらすために召された者であって、神さまに仕えることは救いをもたらすことである」(「旧約聖書神学概説」(1969年日本基督教団出版局)」と言っていますが、まさにその通りでしょう。イエスさまの共同体は、その伝統を引き継いでいるのです。「信仰」とは、個々人のことと思われがちですが、そうではありません。イエスさまの共同体と、これから福音を聞くであろうまだ見ぬ人たちをも含め、その中に立たされることなのです。


Ⅲ 純粋で真実な礼拝を

 パウロは、「ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか」(8)と締め括りました。二つのことに注目したいのですが、一つは、「古いパン種や悪意と邪悪なパン種を用いないで」(新共同訳)とあるところです。コリント教会の人たちは、わずかな「古いパン種」が、教会全体に深刻な腐敗をもたらすものであることを、理解しなかったのでしょう。パウロは、ロマ書に掲げた悪徳表「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者……」(1:29-31)に、あらゆる悪事につながる「悪意」を加えて、あなたたちはそんな者ではないかと鋭く指摘し、それは「邪悪」(口語訳、岩波訳も)でさえあると、糾弾しました。新改訳は「不正」と訳していますが、これは、「不正」などと、賄賂や詐欺のような、ちょっとした「悪事」というニュアンスではなく、まさに「邪悪」(女性形のポネーリア)そのものなのです。これに定冠詞をつけた、「ホ・ポネーロス(男性形)・悪い者」(マタイ13:19、38)という事例がイエスさまの「種蒔きのたとえ」に出て来ますが、これはサタンを指しています。古いパン種も悪意も邪悪もすべて、サタンの罠に陥った、決定的な罪であると指摘されているのです。それは、「神さまの聖なる民」として召された者の選択するところでは、断じてありません。

 もう一つ見ておきたいのは、「パン種のはいらない、純粋で真実なパンで祭りをしようではないか」とあるところです。「パン種のはいらない、純粋で真実なパンの祭り」とは、イエスさまが「過越しの祭り」でほふられる小羊となったことによって、イエスさま共同体が週の初めの日に集い、神さまを賛美し、礼拝を行なっている、その礼拝を指すと言っているのでしょう。「パン種のはいらないパン」は、イエスさまの新しい群れ・教会を指し、「純粋で真実なパンをもって」は、礼拝を彩る、私たちの信仰を指していると聞かなければなりません。礼拝は、教会がイエスさまの教会であることの最も中心であり、それは信仰告白であると言っていいでしょう。礼拝は、「主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきて」(出エジプト12:14)であり、この二千年に渡って先輩たちが受け継ぎ、守って来たものなのです。ところが、ユダヤ人には、数百年(諸説あって定かではない)というエジプト奴隷時代の、エジプトの宗教と頽廃文化に埋没し、神さまのことを忘れてしまった時代があり、「純粋で真実」な信仰が保存されていたとは言い難い事情があるのです。彼らは、重労働の苦悩の中で神さまに叫び声を上げ、神さまがそれを聞いて、彼らは信仰を取り戻しました。今この時点で、コリント教会も同じなのでしょう。「純粋で真実」な信仰は、人間本来の姿ではなく、主の聖なる民に招かれて、初めてそこに立つことが出来るのです。ですからパウロは、期待をもって、彼らを「聖なる民」と宣言しました。私たちも、招かれた者の「純粋で真実」な信仰をもって、主を礼拝し、喜びと感謝を主に献げようではありませんか。


Home