コリント人への手紙Ⅰ


15
神、主なるお方を
コリント第一 5:1-5
レビ記  18:2-10
Ⅰ インセストゥム

 パウロは、分裂分派の問題を一旦切り上げ、コリント教会のもう一つの根本的な問題に、鋭いメスを入れようとしています。「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです」(1)と、その指摘は強烈です。不品行は、旧約聖書ばかりか、ローマ法でも禁止されていました。

 ところで、この箇所の最近のメッセージをインターネットで見ていましたら、「ローマ法も禁止している」との文言が、無造作に組み込まれているものが多くありました。それで少し、ローマ法のことに触れておきたいと思います。ここに「異邦人の中にもないほどの不品行」とありますが、これは、当時、最も優れた世界法規と言われていた、ローマ法を意識してのことと思われます。

 「不品行」は原語で姦通ですが、ローマ法では、「アダルテリウム(姦通罪)」とは別に、「インセストゥム(近親相姦罪)」という罪も定められていて、パウロが「父の妻を妻にしている者がいる」と言っているのは、そのことなのです。これは、再婚した父が死んだか、あるいはその妻と離婚したケースと考えられますが、いづれにしても、これがユダヤ法(レビ18:8-9)やローマ法の「インセストゥム」に抵触していることは間違いありません。「インセストゥム」には、当時、ローマ市民を共同体傘下に組み入れていたウェスタ女神神殿において、特別に聖なる巫女と定められた女性(ウェスタ巫女)が犯した不貞を、共同体の家長である大神官が死罪に定めたところから、「インセストゥム」が社会的父権(あるいは夫権)の行使として市民権を得た、という経緯があるようです。ウェスタ巫女は共同体の娘ですから、市民との不貞は、インセストゥム違反だったのです。さすが近代法の先駆と、感心します。ローマ法は、おおらかなヴィーナス的乱婚自然法から、母権制を経て父権制へと発展整備されていく中で、生まれたもののようです。母権制が父権制に移行する帝政期に、結婚に基づく家族という生活形態が普及した段階で、性意識が貞潔と結びつき、性犯罪法が厳格化されたのは、自然な流れだったのでしょう。この「インセストゥム」は、共和制から帝政制に移行したアウグストゥス帝以降、法学者の意識に上ったもののようで、パウロの時代はまだ、それが社会的安定に移行する過度期まっただ中であったと思われます。その後、帝政期後半には、キリスト教の影響もあって、この「インセストゥム」も成熟していきますが(参考・日本大学法学会論集第81巻第一集「古代ローマにおけるincestumについて」吉原達也)、どんなに優れ、教会法にも影響を与えたとしても、これは、聖書と同列に論じられるものではありません。ですから、インターネット上で、口をそろえて、ローマ法も禁止していると言っているのには、何の意味もありません。むしろ、ローマ法を聖書の権威の擁護にしているのかと、気になります。


Ⅱ 目線をパウロの高さに

 さて、福音を律法からの自由と聞いたコリント教会の人たちは、一切の法規から解放されたとばかりに、ローマ人でさえ顔をしかめたインセストゥムに走り、世界法規のローマ法ばかりか、神さまのことばに反旗をひるがえしたのです。その在り方は、独善的「信仰」に固執するもので、思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。パウロはこう言っています。「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです」(2)と。確かに、キリスト者の立ち方は、人の法に縛られるものではありません。しかしそれは、法律がイエスさまを信じる信仰を蝕むときにのみ言えることで、市民として法律遵守は当然であり、その責務を果たすことで、信仰者としての証しが立てられるのです。まして、その法律が聖書と同じ倫理を主張するなら、それは神さまのことばとして聞かれなければなりません。人の前に忠実でない者が、どうして神さまの前に忠実でいられましょうか。イエスさまを信じるとは、自分を律法や国の法律の埒外に置いてそれを守らず、好き勝手に振る舞うのではなく、より一層厳しくキリスト者として律法や国の法律を守ることであり、それがイエスさまの真意なのです。イエスさまの十字架に罪赦された者であるなら、そんな高い主の倫理を目指したいではありませんか。

 パウロがコリント教会の人たちに提供しようとしていたキリスト者の倫理も、そんな神さまの高みにあるものでした。ですから彼は、こう言っています。「私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました」(3)と。「主イエスの御名によってすでにさばいた」とこれは、教会に働かれる主の霊―聖霊・パラクレートス―のことを言っているのでしょうか。聖霊はイエスさまのお働きを現在化するものであると、ヨハネから学んで来ました。古くから教会は、主の恵みを提供するだけでなく、主の裁きを執行する所でもあって、パウロは、コリント教会がそのような権威を持ち、執行するようにと願ったのです。コリント教会がその権威を執行したかどうかは不明ですが、第一、第二書を読む中で、それは執行されたのではないかと想像します。このイエスさまの裁きを、恐れおののきつつ理解しない者は、イエスさまの恵みをも、理解しないのではないでしょうか。


Ⅲ 神、主なるお方を

 聖霊とともにコリント教会に同席しているとしたパウロは、分裂分派の争いに熱を上げていたとしても、コリント教会の人たちが主の群れであることに、いささかの疑念も抱いていません。しかし、そこには、パンそのものを台無しにしてしまいかねない、古いパン種のような者たちが混じっているのです。教会全体が破滅へと向かわないために、それは取り除かれなければなりません。中世以降のローマ・カトリック教会では「破門」と呼ばれ、現代の教会でも稀に執行される教会戒規―それは、しばしば魔女裁判といった教会ぐるみの悪事を引き起こしたのですが―、コリント教会はその制定と執行の先駆けとなったのでしょうか。パウロはこう言っています。「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです」(4-5)と。「サタンに引き渡した」とそれは、かつてのイスカリオテ・ユダのように、破滅へ引き渡すことですが、名目上、教会からの排除・除名を指す、教会戒規の執行です。その執行に立ち会ったことのある方なら、それがどんなに悲しいことかお分かり頂けるでしょう。しかし教会は、パウロの時代から、神さまの権威をもって、その戒規を執行して来ました。16世紀の宗教改革では、教会が負うべき責務として、「教会訓練」という名でこれが議論の主題に上がっています。イエスさまの恵みを伝えることを責務とする教会は、同時に、人を裁く権威を執行する責務からも、目を背けることは出来ません。教会は、聖霊とともに、主のみわざを代執行するところなのです。

 裁きが執行されないように、教会では、何が教えられなければならないのでしょうか。
 先に「不品行」はユダヤ法やローマ法に抵触すると触れましたが、その法規を、ただ単に「~してはならない」とだけ聞くなら、それは反発を呼び、律法から解放されたいとの反律法的思考に陥りかねません。しかし、レビ記18章には、「~してはならない」とする戒規の前に、「あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」(4)とあるのです。神さまが定めたことだから、心を尽くしてそれを守る。これは、私たちの内に聖なるお方が住まわれているのか?と問われていることではありませんか。しかしながら、コリント教会の人たちは、その問いかけに応えなかったのです。問題の中心点は、そこにありました。現代の私たちも、全く同じ問題を抱えているのです。律法を覚えることも法規を守ることも重要で、それはキリスト者の大切な証しです。けれども、最も大切なことは、天地の造り主である全能の神さまを認め、私たちの罪を贖って下さった、十字架の主を覚えつつ生きることなのです。そのように生きるなら、律法やローマ法をはるかに超えた、高い目線で歩むことが出来るのです。そんな歩みを志したいではありませんか。



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