コリント人への手紙Ⅰ


13
主の民としての矜持を
コリント第一 4:6-13
箴言     3:1-12
Ⅰ 律法からの解放と

 今朝のテキストは、コリント教会の派閥抗争の中で、パウロの使徒的権威に反発している人々への、さらなる反論です。パウロはもう自分たちを「管理者」などとはしておらず、堂々と、「啓示者・使徒」として、権威をもって彼らの前に立っています。「さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、わたしたちの例によって、『書かれていることを超えない。』ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(6)と。「書かれていること」とこれは、聖句としてはどこにもないのですが、教会が神さまのことばとして守るように教えられた、聖書を言っているのでしょう。この「聖書」は、直接的には旧約聖書を指していいるのですが、まだその兆しは見えていませんが、十数年後のヨハネの時代に仲間入りしていくことになる、新約文書をも含めていいのではないでしょうか。

 聖書が神さまの権威として教会を支える啓示の書となった経緯を、考えてみたいと思います。
 まず旧約聖書からですが、コリント教会の人たちのパウロへの反発は、ある意味で、聖書への反発でもあり、コリント教会の人たちは、自分たちの主義主張は聖書を上回る、とまで言い始めていました。コリント教会を構成する人々は多様でしたが、旧約聖書が教会の重要な指針として教えられていたことを考えますと、そこではユダヤ人たちが中心を占めていたであろうことは、ほぼ間違いないでしょう。しかし、会堂管理者クリスポ(使徒18:8)やその後任ソステネ(同17)のことを考えますと、彼らはユダヤ人ですが、名前はギリシャ系ですから、ギリシャ世界の影響を多く受けていたと思われます。そして、そこには当然のことですが、ギリシャ人も大勢いました。しかし、そのギリシャ人の大部分は、ある意味で、シナゴグに出入りしていた、ユダヤ教シンパなのです。その彼らが、旧約聖書から教えられていたのに、それを無視するかのようにパウロに反発したのは、どういうことなのでしょうか。パウロやアポロから教えられていたそれは、イエスさまを指し示すものだったのに……。パウロやアポロがコリントを去った後、指導者となったのは、恐らく、ユダヤ人のパリサイ派教師たちだったと思われますが、当然、彼らは、ギリシャ人たちにも律法を教え始めたのでしょう。しかしながら彼らはその律法を、ユダヤ本国で彼らをがんじがらめに縛っていた律法ではなく、ギリシャ文化の近代的思想を背景に、未来に希望を見出す福音の光の中で聞き直し、試行錯誤しながら、福音を、律法という神さまの権威からの解放と受け止めたようです。


Ⅱ 自由主義神学の中で……

 正確には、紀元七十年の、ユダヤ戦争以降の「後期ユダヤ教」においてですが、当時、すでにユダヤ人は、タルムッドやミシュナというラビたちの教えを重んじ始めていて、特に、ディアスポラのユダヤ人たちは、世界の「宗教」という思想に毒され、聖書をユダヤ教の聖典として神さまの啓示とは受け止めない、近現代の批評的自由主義神学にも似たところに陥っていたと思われます。「聖典」というと聞こえはいいのですが、その言い方は、聖書には馴染みません。「せいてん」とは「正典」であって、「カノン(基準)」のことなのです。ですから、イスラエルの絶対的権威だった「啓示」は、次第に人間の宗教というレベルに堕して世の宗教と競合、迎合(シンクレティズム=宗教混合)するようになったのです。恐らくそれは、教会に、グノーシス主義が異端として入り込んで来たからなのでしょう。ある意味で、コリント教会の人たちは―ユダ人指導者たちでさえ―、その高度な宗教思想に魅了され、パウロやアポロから聞いた福音の教えを、一気に、人間の宗教にまで引き下げてしまったと言えそうです。

 そしてそこには、やがて聖書に組み込まれる、新約文書も含まれるようになりました。パウロへの反発は、ある意味で、旧新約文書が神さまのことば・啓示として耐え得るか否か、テストされていたと言えるでしょう。聖書は、さまざな過程を経て、結局、上からの「啓示」であるとして、人間の知恵が引き下がったところに確立した証言なのです。ディアスポラのユダヤ人たちが、近現代の批評的自由主義神学にも似た宗教意識に陥っていたと触れましたが、いづれの時代にも、それに対抗するように、福音主義神学にも似た教えもあって、双方の議論は、神さまの啓示としての聖書の位置を獲得するための、大切な過程であったと言えるでしょう。「いったいだれが、あなたがたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、人からもらったものでないものが何かあるのですか。もし人からもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(7)と、「高慢」の罪に陥ったコリント教会の人たちの、人間の宗教的知恵に戦いを挑んだパウロは、今、意図せずして、そんな行程を踏んでいるのでしょう。

 自由主義神学に囚われた人たちは、使徒に反対することで、神さまの権威・聖書に対抗し、今、それを超えようとしているのです。しかし、彼らが自由主義神学に走ったのは、当然だったと言えましょう。なぜなら、彼らが掴んでいたのは、天空の星々の霊を纏う、グノーシス主義神学の世界だったからです。大商業都市コリントを背景に、彼らは、ある意味、怖いもの知らずの自由人、天下のコスモポリタンでした。パウロはこう言います。「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょう。」(7-8) 「本当の王に……」と、それは、神さまが支配される王国に招かれることで、パウロにとっては信仰の帰結でしたが、彼らには、ここに込められたパウロのアイロニー(皮肉)など分からなかったでしょう。熱狂主義者にありがちな、「盲目的狂信的確信」に陥っていたからです。


Ⅲ 主の民としての矜持を

 パウロは、「私たち」と、アポロやペテロをも含め、自分たちが神さまのメッセージを伝える者・使徒であることを明らかにして、こう言っています。「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです」(9)と。これは、大衆娯楽の犠牲となって円形闘技場に引き出された、剣闘士のことを言っているのでしょう。しばしば犯罪者たちは、彼らの惨めな死を楽しむ人々のために、剣と盾を与えられて闘技場に送り込まれました。12年ほど後に、ネロ皇帝によって、それは現実のものとなりました。パウロの殉教は67年と言われていますが、そのとき、ローマの円形闘技場には、全世界ばかりか、天使を含めた、天と地のあらゆる歴史の目が注がれていたのです。パウロは、そのようにこの世から辱め侮られ苦難を受けることで、「使徒」とは主の福音に仕え、いのちさえ惜しまない者なのだと、その本質を明らかにしたのです。

 パウロは今、コリント教会の人たちに、イエスさまを信じて、その群れの民として召された者たちの価値観は、この世のものとは徹底的に異なるのだと宣言しているのでしょう。「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです」(10-13) いつの時代にもこの世は、その異なる価値観のゆえに、イエスさまにつく者たちを徹底的に憎み、葬り去ろうとして来ました。これは、コリント教会の人たちについても言えます。パウロは彼らに、「私たちはキリストのために愚かな者だが、あなたがたはキリストにあって賢い者である」と念を押していますが、ここでは、「キリストを信じて賢い者となっている」と意訳した新共同訳が際立っています。その訳からは、「イエスさまを信じたのに」という、パウロの嘆きが聞こえて来るようです。彼らは世故に長けた利口者でした。この世のものを何から何まで否定はしませんが、私たちは、イエスさまにつく者としての矜恃を失ってはなりません。「(主の)恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ」(箴言3:3)とありますから……。



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